戦後まもなく東京・大田区に三並義忠・風美子夫婦が営む光伸社という町工場があった。
進駐軍から電気温水器を受注して、順調に業績を伸ばしていたが、1952年に進駐軍が撤退する事になり、注文が途絶えてしまうと一転倒産の危機に追い込まれてしまった。
ある日、三並は東京芝浦電気(現在の東芝)へ飛び込み営業をかけた。何でも良いから仕事が欲しいと話す三並に、応対したのは東芝・家電部門の営業マン山田正吾だった。
山田は口から先に生まれたような弁の立つ男だった。洗濯機などの実演販売で全国を回り、主婦達が最も大変な家事が、飯炊きであることを聞いていた。これを商品化できれば大ヒット間違いなしであったが、会社の会議では却下されていた。理由は東の三菱電機、西の松下電器などの、一流メーカーが開発に失敗していたからだ。
仕事を懇願する三並に山田は電気自動炊飯器、いわゆる電気釜の開発を提案した。躊躇した三並だったが、夫婦と6人の子供達の将来を電気自動炊飯器に託すことにした。
開発は苦難の連続であった。当時の釜戸で炊くご飯は、主婦達の経験と勘で炊いていた。
釜を電気で加熱するには、通電する時間や温度管理が必要で、季節や気温の変化による水の温度差や水量の加減があり、何度炊いても同じように美味しく炊く事はできなかった。
電気自動炊飯器の開発は釜に温度計を入れて、米を炊く温度変化のデータを取ることから始まった。米を炊いて温度データを取るのは風美子の役割だった。
三並は一家の存亡を賭けて開発に打ち込み、一日に何度も米を炊いて実験を繰り返した。
当時の米は配給制で、工場や自宅を担保に借金をしてまで、実験する米集めに奔走した。妻の風美子も夜を徹して手伝ったが、心身共に困憊した風美子の躰に異変が起きた。
父と母の姿を見て育った子供達が奮起した。それぞれが自分たちの身の回りの事は勿論、朝の家事や学校から帰ってからも、役割を分担してデータ取りを手伝った。風美子は子供達の協力を喜んだ。そして子供達に「日本の女の人は一日 3時間ご飯を炊くために使っている。これが出来たら仕事に出られるようになる」と言って聞かせていた。しかし、借金の返済も滞り、担保にしていた工場や自宅を使える期限は目前に迫っていた。
一方、山田も奔走していた。東芝の技術者から、温度係数の違う金属を貼り合わせたバイメタルが、サーモスイッチに使用できることを調べてきた。釜の構造も冬の北海道でブリキや石綿で、釜を覆って炊く方法があり、それが参考にならないか三並に話した。
三並は釜全体を何かで覆った構造に出来ないか思案し、工場に籠もって実験する事にした。
そして工場が使えるのも、これが最後だと思った。その時、長男が父に仕事を手伝わせて欲しいと訴えた。二人で工場に籠もり三重構造の釜造りに没頭した。
父と息子は一週間不眠不休で試作器を造り上げた。マイナス10度の部屋で、試作器の釜にスイッチを入れた。30分後に美味しいご飯が見事に炊けた。一家が夢にまで見た電気自動炊飯器が完成した瞬間だった。
三並は試作器を家に持ち帰り、完成したことを家族に告げ、自分で米を炊いて見せた。寝込んでいた風美子は起き出してきて、家族のためにお祝いのソーセージを揚げた。炊きたてのご飯と、家族の好きなソーセージを前に、三並は風美子の手を握り「お前達みんなで造り上げた電気釜だ」。開発に着手して3年後の55年12月のことであった。
できあがった電気自動炊飯器は東芝が販売する事になった。山田は自分の言葉を信じて、三並の家族全員が多くの犠牲を払ってまで造り上げた、電気自動炊飯器を売る責任を感じていた。一台でも多く普及させることが、三並と家族への礼儀であると心底思っていた。
山田は東北へ向かい主婦達を集めて、電気自動炊飯器の便利さを説いてまわった。そして、飯炊きに慣れた主婦でも失敗の多い、炊き込みご飯を炊いてみせた。炊きあがると得意な、立て板に水の口上で電気自動炊飯器の蓋を開け、釜底を杓文字ですくってみせた。焦げは見あたらず、見事な炊きあがりに主婦達はどよめき、気がつくと拍手が沸き上がっていた。
山田の報告を受けた東芝は全国に大号令をかけた。定価は当時の大学卒初任給である約
9.000円の三分の一に相当する3.200円と高価なものであったが(55年の平均月収18.343円=労働省・労働統計調査部調)、電気自動炊飯器は瞬く間に、全国の家庭の半分に行き渡る空前の大ヒット商品となった。
日本の家庭の台所に革命を起こした、電気自動炊飯器の生産に三並の工場も活気づいた。
製造ラインは昼夜3交代のフル稼働が続いた。発売2年後には月産1万台の生産をするようになり、工場も自宅も人手に渡さなくて済んだ。
電気自動炊飯器は外国にいる日系人の間にも普及し、日本発の世界的発明となった。家庭の主婦達に時間の余裕ができたことで、女性が社会進出や自己啓発の時間に充てるなど、台所以外への影響が波及し、庶民の生活文化が変わるきっかけにもなった。
その後、山田は「お釜のヤマさん」と呼ばれ、定年後は自分で会社を創り 82才まで営業
マンとして働いた。風美子は病床に伏していたが、全国の主婦達から届く「電気釜で生活が便利になった」との手紙を楽しみにしていた。だが、風美子は 59年に 45才の若さで他界した。その傍らで人目も憚らずに大声で泣く父親の姿を、子供達は瞼に焼き付けていた。
戦後の復興時代に、ひたむきに生きた一組の夫婦であった。現在は三並の故郷・愛媛で一緒に眠っている。
電気自動炊飯器は 55年に発売され、60年には全家庭の約半数に普及した。この頃に時間を任意に設定して、電気をON/OFFするタイマースイッチが発売された。寝ている間にご飯を確炊くことができ、朝の忙しい主婦に大好評となり、売り切れ店が続出した。
72年には保温機能のついた電子ジャー炊飯器、79年からマイコン搭載器が登場。88年には電磁誘導加熱のIHジャー炊飯器が発売された。
東芝は 9月に、米の旨味を引き出し、保温機能を高めた炊飯器「真空圧力炊きシリーズ」を発売した。汎用品とは異なる高級感が伝わるデザインに仕上げられており、売れ筋価格帯である2万7千円前後の、3倍以上もする10万円を超える上位機種が人気である。
高額でも売れ行き好調の理由は、圧力をコントロールして炊きあげ、保温する機能である。
さらに、化粧品や香水のボトルに使われている、プレミアムブルーという色を使ったデザインである。従来の白物家電ではあり得ないお洒落な色使いである。
デザイン上では液晶バネルが大型になったのもポイント。従来の白物家電では多機能だが、操作性が悪かった。大型液晶パネルで操作メニューを選択することで使用感を向上させた。
炊飯器は実際に米を炊いてみないと、良さが消費者に伝わり難いため、機能に相当する高級感を演出するデザインにして、こだわりのある商品として仕上げた。
電気自動炊飯器は、三並一家の苦闘と山田の執念で開発されて以来、時代の変遷に合わせて進化を遂げてきた。真空圧力炊きシリーズは東芝が51年目に世に問う自信作である。
現在まで国内累計は5億台以上が出荷されているという。90年以降は毎年600〜700万台がコンスタントに出荷され、国民生活に欠かせない家庭電化製品となっている。 |