1917年にロシアで起きた三月革命(ユリウス暦二月)では、市民運動の激しさから政府や軍首脳は専制の継続が無理と判断した。これにより政府はニコライ二世に退位を勧告し、 300年におよぶロマノフ朝は終わりを告げた。
十一月革命(ユリウス暦十月)ではウラジミール・レーニンがクーデターを起こし、ほぼ無血で政権を掌握した。この革命が22年の一党独裁を国是とするソビエト社会主義共和国連邦への、樹立につながったことからロシア革命と云われている。帝政ロシアからソビエト政権へと移行した世界史上初めての社会主義革命であった。この革命によってソビエト国内においては、土地の私有権廃止が宣言され、富裕層の財産が没収されるなどした。また、新しく誕生した社会主義政権によって政敵や叛乱分子などへ、大規模な粛正や迫害が行われた。この革命により数百万人の旧ロシア人が、祖国を捨てたと云われている。
当時、革命の勃発によって富裕な商家であったフェードル・ドミトリー・モロゾフ一家も政情の大混乱により、将来の不安と家族の生命を守るため、17年10月に財産の総てを残して、シンビルスク(現在のウリヤノフスク)を離れ満州に向かう汽車に乗った。当初は一時的な避難で、母国の政情が安定すれば帰国する予定であった。しかし、ロシアの情勢はますます悪化する一方で、中国・ハルピンやアメリカ・シアトルで数年間暮らしたあと、 22年モロゾフ一家は、当時数百人のロシア人が暮らしていると云われた神戸に移住した。
当時はモロゾフ一家のようにロシア革命を逃れて、日本に庇護を求めたロシア人は数千人規模と云われている。その頃のロシア難民は、食料品店などの小売業や布地・羅紗売りの行商によって生計を立てている人が多かった。日本ではちょうど大正時代の後期から昭和初期の時期にあたり、人々の暮らしは着物から洋服への過渡期にあった。モロゾフ氏は羅紗売りの行商をしながら、夢であった製菓工房創設の資金を蓄えていった。
26年に一家は力をあわせて神戸で「モロゾフ洋菓子店」を開いた。31年には、それまで事業に協力してくれた在日の企業経営者を社長として「神戸モロゾフ製菓株式会社」を設立した。モロゾフ氏も菓子製造の技術者として経営に参画したが、モロゾフ氏を除く全員が菓子製造には素人の集団であった。
当時の高級チョコレートはイギリスやスイスからの輸入品で、100%の関税が掛けられる超高級品だった。これに対抗して神戸の市民達が、普通に食べることができるチョコレートを、生産しようという高い志を掲げてスタートした。モロゾフ氏の技術指導を受けながら、社員達はロシア風チョコの開発や、製造技術の習得に取り組み、二年後には僅かであるが利益を計上できるようになった。
しかし、モロゾフ氏と社長は経営に対する考え方や、感情的なもつれから訴訟沙汰になってしまった。モロゾフ氏は訴訟に敗れ、追われるように会社を去った。その後モロゾフ氏は再起をはかったが、「モロゾフ」の会社名や商品名を使うことは出来なくなってしまった。
さらにその後、モロゾフ氏は紆余曲折を経て、51年に「コスモポリタン製菓」を設立した。
神戸モロゾフ製菓は大量納入した商品を、菓子問屋から全品を返品されるという痛手を被ったことがあった。この経験で直営店や直轄店重視を基本方針とする経営に徹するようになり、この方針は現在も継承されている。
36年2月、のちに二代目社長となる葛野友太郎が親交のあった米国人から、欧米にあるバレンタインデーの習慣を聞き、12日づけ英字新聞ジャパン・アドバイザー紙に「バレンタインデーには、ファンシーケースボックス入りの、チョコレートを贈りましょう」と、日本で初めてバレンタインの習慣を紹介する公告をだした。
この年の8月、これまでの社名から神戸を外して、全国的な会社として成長したいとの思いを込めて、会社名を「モロゾフ製菓」とした。翌年になり友太郎は、アメリカへ視察に行き、彼我の生産体制の格差に驚愕し、帰国後すぐに工場の整備拡張に乗りだした。しかし、国際情勢には焦臭さが漂い、やがて第二次世界大戦へと突入していく。軍需工場となっていたモロゾフ製菓は、45年の空襲で総てを焼失してしまった。
戦火が鎮まった21年に、喫茶店を開業して大繁盛となり、その片隅にモロゾフ製菓の事務所を再開して、復興に踏み出すことになった。52年になってカカオ豆の輸入が許可されるようになり、チョコレートの生産を再開できるようになった。62年にはプリンの生産を開始し、凝固剤を使用しない本物志向は、主力製品として育っていく。
69年には友太郎がヨーロッパから持ち帰ったレシピで、レモン風味が加わったチーズケーキを販売して大評判となった。この頃には冷蔵庫が普及し、日持ちしないと云われたチーズケーキが、家庭に持ち帰って保存出来るようになり、次なる主力製品になっていった。
72年8月には事業の多角化により、現社名である「モロゾフ株式会社」と改称した。
モロゾフ氏との別離や戦渦の後遺症など、苦難の道もたどったが、「本物を直販」という基本方針が、モロゾフを今日の姿にしている。現在は大阪・東京の証券取引所一部上場を果たし、資本金36億3746億円、売上高259億5千万円(07年1月期予想)となっている。
店舗数は菓子販売店舗を中心に、カフェやレストランを全国に767店舗(06年1月末時点)を展開する優良企業となっている。
06年8月18日の神戸新聞に、神戸の老舗洋菓子メーカーである「コスモポリタン製菓」が自主廃業していたことが掲載された。フェードル・ドミトリー・モロゾフは、日本に初めて高級チョコレートを紹介し、苦労を重ねながらも事業家として成功を収めた。
ロシア革命で混乱の中、政治的見解の違いから迫害を恐れ、ロシアから中国、そしてアメリカを経て日本に渡った難民であった。1926年に神戸のトアロードに一家が、「モロゾフ洋菓子店」を創業してから、数えること80年の節目で歴史に幕を閉じた。
ロシア風の洋菓子を日本に紹介し、現在のモロゾフの礎を築き、日本の洋菓子文化を支えた80年であった。84年には神戸ポートアイランドに本社工場を建設し、三宮と東京の店舗でチョコレートや洋菓子を販売していた。食の多様化や価格競争の波に飲まれ、売上不振で業績が低迷していた。帝国データバンク神戸支店の調査によると、05年の売上高は7億5千万円で、ピーク時の99年からは3割以上減少していた。最近では砂糖などの原材料の高騰が、経営圧迫に拍車をかけていた。業界関係者の間では、日本人向けにアレンジしない菓子造りが、コスモポリタン製菓の成長を妨げていたとの説もある。
三代目となるV・モロゾフ社長は「昔ながらの作り方や売り方が、時代の流れにマッチしなくなった。体力があるうちに事業をたたむ決心をした」と述べている。 |