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1890年にヤコブ・ウィンストンはニューヨークで宝飾品も扱う時計店を開いた。1986年に息子のハリーが誕生した。ハリーは12才の時に質屋で25セント均一の宝石の入ったトレーの中から緑色の石を購入した。この石が2カラットのエメラルドだと見抜いたハリーは父親のもとに持ち帰り、2日後に緑色の石は900ドルで売却された。
この逸話はハリー・ウィンストン社において、今でも伝説として語り継がれている。
ハリーは15才になってから父親の店で働くようになり、24才になった1920年にはプレミア・ダイヤモンド社をニューヨーク5番街に設立した。
第一次世界大戦で、栄華を失ったヨーロッパ貴族達が売りに出した派手やかな宝飾品を買い取り、シンプルなデザインにリメイクした。このジュエリーを新興富裕層になった夫人達が競って買い求めるようになった。25年には大富豪ストダート夫人の遺産をオークションで競り落とし、破格の125万ドルで売却した。26年にはアメリカ鉄道会社創設者ハンティントン夫人のコレクションを120万ドルで落札。30年にはオークションに出品されたなかでは最大と言われる39カラットのダイヤモンドを落札した。
これらの成功でプレミア・ダイヤモンド社は世界の富裕層を対象にした宝石商として、資産性の高い極上のジュエリーだけを扱うようになった。
32年にはプレミア・ダイヤモンド社を閉鎖して、自らの名を冠したハリー・ウィンストン社をニューヨークの51番通りに設立した。ジュエリーの売買やリメイクだけでなく、自社のデザインによるジュエリー製作を本格化するようになった。大粒の宝石類をより美しく見せるために、石を留める貴金属類をほとんど見えないようにデザインした「ウィンストニアン・スタイル」は現在でも定番商品となっている。
51年に127カラットのダイヤモンド「ポーチュギース」を購入、60年にはナポレオン1世がオーストリヤのハプスブルグ家のマリー・ルイーズ皇后に贈ったと云われる総計275カラットのダイヤモンドネックレス「ナポレオン・ネックレス」を購入した。66年には「テーラー・バートン」を、72年には史上3番目の大きさである970カラットのダイヤモンド原石「スター・オブ・シェラネ」を購入し、ジュエリー・カッターのラザール・キャプランの手で、総計238.43カラットで合計17個のダイヤモンドにカットされた。
世界の有名なダイヤモンドの三分の一は、ハリー・ウィンストンが一度は手にしたと云われており、「キング・オブ・ダイヤモンド」と呼ばれるようになった。
ワシントンのスミソニアン博物館にはハリー・ウィンストンが寄贈したジュエリー・コレクションが陳列されている。その中には3つの伝説的なダイヤモンドが含まれている。
「ポルチュギーズ・ダイヤモンド」は127カラットの八角形の巨大なダイヤモンドで63年に寄贈された。「オッペンハイマー」は254カラットの、世界最大級でほぼ無傷のダイヤモンド原石の結晶で64年に寄贈された。
58年に寄贈されたブルーダイヤモンド「ホープ」は、1642年に有名な旅行家タベルニエがインドから持ち帰ったダイヤモンドの一部と云われ、1668年にフランス国王ルイ14世に売られた。これを受け継いだルイ16世のマリー・アントワネット妃も所有したことがあり、これを身につけた人は全て不幸になる不吉な石と云われている。
1756年、フランスは300年に渡って争い続けたオーストリヤと同盟を結んだ。この同盟は外交革命と呼ばれて全ヨーロッパを驚愕させた。1770年には後にルイ16世となるフランス王太子とオーストリヤ皇女マリー・アントワネットが結婚し、フランスとオーストリヤは姻戚関係になった。(現在で云えば政略結婚である。)
1774年にルイ16世がフランス国王に即位した頃は、ルイ14世の頃からの度重なる戦争で、膨大な負債を負って経済は疲弊していた。国王は経済の建て直しを図るが、困難から逃れることは出来なかった。一方、フランス王妃となったマリー・アントワネットは舞踏会やギャンブルに明け暮れる生活で、「浪費家のオーストリヤ女」と云われ、国民からは大変な非難を浴びていた。
1789年にパリ民衆が蜂起してフランス革命が勃発し、1791年には国王一家が国外への逃亡を試みて失敗したヴァレンヌ事件が起きた。翌年にはパリ市民がチュイルリー宮殿に乱入し、国王一家がタンプル塔に幽閉される。1793年1月にルイ16世が、10月にはマリー・アントワネット妃がコンコルド広場にて処刑された。
1792年にフランス王冠の宝石が盗難に遭ったときに、このダイヤモンドも紛失してしまったと云われていたが、1830年にロンドン市場に突然現れてホープ氏に落札され、彼のコレクションに加わった。その後このダイヤモンドは「ホープ」と呼ばれるようになった。
しかし、それからのホープ家では不慮の死や不幸が続き、その後の持ち主も不運に見舞われたと云われる。
1952年に女医ハン・イースンの自伝小説がベストセラーとなり、香港を舞台にして映画化されて世界的に大ヒットした。この映画「慕情」(’55公開)でウィリアム・ホールデンと共演した女医役のジェニファー・ジョーンズが、40年代初めにハリウッド・スターとして、初めてハリー・ウィンストン社のジュエリーを身につけたと云われている。
43年にはアカデミー賞の授賞式で人気スターや女優達にジュエリーを貸し出し、ブランドのイメージアップに協力してもらうという、当時としては画期的な宣伝手法を確立した。
47年にはキャサリン・ヘップバーンがインクイジション・ネックレスを身につけて授賞式に出席した。マリリン・モンローには「紳士は金髪がお好き」(’53公開)のなかで「ねえ、ハリー・ウィンストン、ダイヤモンドのこと、何でもいいから教えて」と唄わせた。
ハリウッドの代表的男優であったリチャード・バートンが「予期せぬ出来事」「クレオパトラ」(’63公開)「いそしぎ」(’65公開)で共演し、恋愛関係にあったエリザベス・テーラーに、最初に贈ったダイヤモンドは33.19カラットのエメラルド・カットで、テーラーは「クルップ」と呼ばれたこの石を指輪にして使っていた。
ハリー・ウィンストン社では 66年に 240.75カラットのダイヤモンド原石を手に入れ、
69.42カラットのペアシェイプ形のダイヤモンドにカットした。この石は69年にオークションにかけられ、カルチェが100万ドルを超える価格で落札した。その後リチャード・バートンに買い取られ、テーラーの40才の誕生日プレゼントとして贈られた。テーラーはこれをグレース王妃の40才の誕生パーティに着けて行き大きな話題となった。
2度の結婚と離婚を繰り返した二人であったが、のちにこのダイヤモンドは「テーラー・バートン」と名付けられた。二人の離婚後の78年に、テーラーはオークションに出品して50万ドルで落札された。現在はサウジアラビアに渡っていると云われる。
このようにハリー・ウィンストン社は多くの話題を提供しながら、会社の価値を高めていった。ハリーは78年にニューヨークで死去、息子のロナルドが代表取締役に就任した。
日本時間3月6日午前9時に全世界が注目する映画界の一大イベント、第78回アカデミー賞授賞式がアメリカ・ロサンゼルスのコダック・シアターで盛大に開催された。受賞にノミネートされて会場のレッド・カーペットを歩いたスターや、式後のパーティ会場に集まった多くのスター達がハリー・ウィンストン社のジュエリーを身につけていた。
04年にダイヤモンド採掘会社エイバー・ダイヤモンド社が、ハリー・ウィンストン米国本社の株式51%と追加運転資金を含め8500万ドルで買収した。
日本では98年に大阪サロンを開設、00年に東京・銀座に旗艦店を出店、今年2月に表参道ヒルズ店がオープンしている。
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