1582年に織田信長が本能寺の変で倒れた後、豊臣秀吉は諸国大名達に対する巧みな論功行賞により戦意を昂揚させ、1590年に全国を統一した。しかし、その後は諸大名達に与える恩賞地は尽きてしまい、秀吉は中国の明へ領地を求めた。その仲介役を朝鮮に依頼したのだが、拒否されたため1592年に出兵した(文禄の役)。1597年に再び出兵(慶長の役)したが、戦況が苦戦していたことと、1598年8月18日に秀吉が死亡した事を機に撤退することになった。出征した諸藩の多くは撤兵する際に農民や陶工達を伴って帰国し、農耕技術や陶芸技術を日本に持ち帰ることとなった。
肥前国鍋島藩の藩主であった鍋島直茂が連れ帰った陶工の中には、「有田焼」の祖と云われる李参平(イ・サムピョン 一説には韓国の忠清南道金江の出身で、のちに金ヶ江性を名乗っており子孫は今に続いている)がおり、日本名を「三兵衛」と称していた。
三兵衛は有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこで天狗谷窯を開いて日本初の白磁を焼いたとされている。
近年の学術調査では天狗谷窯よりも、早い時期から磁器製造が始まっていたことが明らかになっているが、三兵衛の名は有田町龍泉寺の過去帳にも記載されている実在の人物で、肥前磁器の発展に貢献した人物で有ることは確かなようである。17世紀初頭は日本も世界も激しく揺れ動いていた時代であった。関ヶ原の戦いがあった
1600年には、オランダ船が大分海岸に漂着した。1602年にはオランダ東インド会社が設立された。翌年には徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。
この頃、スペインの無敵艦隊がイギリスに破れ、東洋貿易の覇権はポルトガルやスペインからイギリスやオランダの新興勢力に代わっていった。
陶芸の世界でも唐津藩には「楽焼」や「萩焼」と並び日本三大茶陶器に数えられる「唐津焼」が有り、茶陶とも呼ばれて茶人達から愛された陶器が古くからあった。1616年に三兵衛が白磁鉱を発見してからは陶器から磁器へと転換し、やがて有田焼を誕生させる。
唐津焼きの流れをひく「多久古唐津焼」「平戸古唐津焼」は次第に消滅し、「松浦古唐津焼」は藩御用窯となり、「武雄古唐津焼」は生活雑器の民窯として今に伝わっている。
1641年に長崎の出島にオランダ商館が開かれた。出島にはカピタン(商館長)をはじめ多くの東インド会社の社員や商人達が住んでおり、白砂糖や時計、象牙などの珍しいヨーロッパの風俗やバロック芸術の感覚を持ち込んだ。そのなかでも長らくカピタンを勤めたワグナーは、有田の陶工達に新しいデザインや技術を教え、それまでの絵柄の常識を変えた。
エキゾシズム漂う紋様は中国の陶工達にも模倣されるようになり、やがて有田焼は絵模様や製作スタイルにより、大きく分けて三つの流れが出来るようになった。
「古伊万里」系は古い有田焼が伊万里港から船積みされていたために、この名が付いた。本来は古有田焼とも云うべきだが、その後に続いた「柿右衛門」系や「色鍋島」系を除く、有田の古陶磁の総称として呼ばれるようになった。古伊万里の絵柄は連れ帰ってきた三兵衛を始めとする陶工達による明の影響や、出島に集まる人達の影響でヨーロッパのバロックやロココ調の美が交わり、さらに元禄文化の庶民の暮らしが調和したものとなった。
色鍋島は鍋島藩が有田焼のルーツとも云える明の官窯景徳鎮を参考に藩窯を造った。鍋島藩は色鍋島を徹底的に保護し、藩御用・幕府献上・禁裡などに用いられた。廃藩置県により藩窯は無くなったが、赤絵師の一人である今右衛門家に伝わる優雅で貴族的な絵柄や、インドやペルシャの影響を受けた更紗模様は、現代においても人々を魅了している。
柿右衛門系は、にごし手の地肌に絵模様は控えめにして、左右のバランスを崩した独特の調和美を格調高く表現しており、ヨーロッパの貴族達をも心酔させた。17世紀から18世紀のヨーロッパの王侯貴族達にとって、日本や中国の陶磁器は金銀と同じ価値を持っていた。ハプスブルグ家、ブルボン家、ハノーバー家など当時のヨーロッパを支配していた王侯貴族達は、コレクションだけでは飽きたらず、他国から陶工や絵付師を連れてきて、自領内で焼かせるようになった。
ドイツのザクセン王・オーガスタ一世は古伊万里の熱狂的なコレクターであった。オーガスタ王は日本陶磁器のコレクションを元に、陶磁器美術館を建設し、日本宮と名付けた。
磁器の絵柄を彫り込んだ外観からインテリヤまですべて日本調にする凝りようで、日本の風俗・習慣や植物まで珍重した。ドイツでは築城するときに建物は、山側に建てるのが常識であったが、ドレスデン近郊のピリニッツ城やモーリニッツ城はエルベ湖畔に、磁器の代表的絵柄である山水画を模して造られていた。このような風潮を美術研究家はシノアズリーと読んでいる。シノアズリーは後期バロック調からロココ調への発展のもととなり、ヨーロッパ美術史上に大きな影響を与えた。
オーガスタ王は陶磁器の輸入だけでは満足できずに、マイセンに製陶工場を建設し、錬金術師ベドガーを強制的に連れてきて製陶工場の初代監督とした。ベドカー19才の時だった。
ここで造られた白磁に描かれたのは、竹に黄金の虎、栗にうずら、芝垣などの日本的絵柄で、ヨーロッパ風にアレンジはされているが、まさしく柿右衛門の作風であった。
このマイセンこそがヨーロッパ磁器発祥の地であり、400年を経た今日においてもマイセンの作品に、このスタイルの絵柄は受け継がれている。1970年、有田窯業界の有志7人が当時国交のなかった東ドイツに渡り、ヨーロッパ磁器発祥の地マイセンに近い、ドレスデンの美術館地下倉庫で膨大な量の古伊万里を発見した。この訪問団には十四代当主である酒井田柿右衛門さんも含まれていた。
5年後には福岡での里帰り展が実現した。1979年には当時の青木町長が国立マイセン製作所のカール・ピーターマン総裁と姉妹都市協定に調印し、有田とマイセンに交流の架け橋がかかった。しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊し東ドイツは消滅してしまった。
そうした混乱でマイセンとの連絡も途絶えていた1991年、当時の川口町長のもとへマイセンからの招待状が届き、マイセンの一大イベントであるワイン祭りに合わせて、町長ら32人の一行が訪問して姉妹都市の再調印を行い、ふたたび相互交流を深めることとなった。
1992年には青少年親善使節団の派遣を青年会議所が企画した。この企画は市民レベルで設立した両国の友好協会に引き継がれ、現在においても隔年ごとに交互に中高生がホームステイをして親睦を深めている。
このような有田町民の地道な取り組みの成果は、2002年のマイセンの洪水被害支援にも発揮され、子供から老人までの幅広い年齢層の町民達が募金に協力した。
当初の予想を大きく超える800万円の義援金がマイセンに送られ相互の絆を強めるとともに、姉妹都市マイセンが有田町に深く根付いている証となった。
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