ワコールの創業者・塚本幸一は1920年(大正9年)に、父・粂次郎、母・信の長男として仙台市で生を受けた。幼少時には本家の冷たい仕打ちにより、一家離散の憂き目に遭ったこともある。商売をしていた粂次郎の仕事が軌道に乗り、京都で一家四人が暮らせるようになったが、粂次郎の散財癖もあり生活は苦しかった。信は「早く大きくなって父さんを助けてやって、そして本家を見返しておくれ」と、幼い幸一に口癖のように聞かせていた。
「大きくなったら、絶対に商人になる」と誓っていた幸一は、近江商人の仕官学校と言われていた滋賀県立八幡商業高校へ進学する。卒業後は母の願いを聞き入れ、粂次郎の商売である「嘉納屋商店」を手伝うようになった。風呂敷包みに入れた商品を得意先に売って歩く行商で、夜汽車で地方を廻りながら、がんこな粂次郎から商売を躰に叩き込まれた。
幸一は二十歳になった40年の暮れに入隊し、43年にはインパール作戦に従事させられた。
飢え・渇き・疫病などで死ぬ仲間もおり、小隊 55人のうち 52人が戦死した。戦史上もっとも無謀で過酷な作戦であった。祖国へ引き揚げる船のなかで「どうして俺だけが生き延びた。自分は生かされているのか。ならば自分だけの人生ではない。我が身が敗戦復興のために必要とされるなら期待に応えよう」自問自答しながら46年6月に復員してきた。復員後は粂次郎の掲げた「和江商事」の名前を使って商売を始めた。竹ボタン・ハンドバッグ・キセルなど商売になる物なら何でも扱った。ある時、東京のセールスマンがブラジャーを売り込みに来た。仕入れて販売するとすぐに売れた。今度は別な男がブラ・パットを持ち込んできた。これもすぐに売り切れた。戦後の混乱期で商品はそれきり入ってこなかったが、幸一は「これはいける」と直感した。
幸一は妻の躰で型紙をとり、試行錯誤のなかでブラジャーとガーター・ベルトを造った。リュックを背負い夜行列車を乗り継いで、日本全国を売り歩き、和江商事のヒット商品となった。「消費者に喜んでもらえるものを造れば商売になる」幸一の信念となった。
48年1月に待望の長男・能交が生まれた。秋には商いの師である父・粂次郎が他界した。
これを機に個人経営を整理し、翌年11月に和江商事株式会社を設立した。
ところが売れ行きがバタリと止まってしまった。社員は増える、在庫は溜まる、経費は嵩む、資金は底をついてしまう最悪の再スタートとなってしまった。塗炭の苦しみの中で人員整理も考えたが、若い住み込み店員の寝顔を見ると可哀相で言い出せなかった。
そんな時、苦悩する幸一に閃きが走った。「この世に50年もの計画を立てているやつがいるだろうか。いない筈だ。 もし、俺が運良く 50 年計画をやり遂げたら、俺は世界一になれる。50 年代は国内市場の開拓期、60 年代は国内市場の確立期、70 年代は海外市場の開拓期、80 年代は海外市場の確立期、90 年代以降は世界企業への確立期として世界制覇だ」
翌日の朝礼で社員に大構想を発表した。社長が夢を見るのは勝手だが、毎日が火の車である。社員は呆気にとられて口をポカンと空けたまま話を聞いていたと言う。「良いことばかりの理想を掲げると、カネが無くて気持ちまでみずぼらしくなっていた自分が、シャキッとしてきた」と意に介さない幸一は、この難関を乗り越えた。後年、幸一は「この世には難関などはなくて、難関だと思う人があるだけなんですよ」と語っている。その後、幸一は百貨店攻略に乗り出す。門前払いの毎日であったが、高島屋大阪店でテストセールスのチャンスを掴んだ。それをきっかけに大阪全ての百貨店の売場を攻め落とした。阪急百貨店では男子立ち入り厳禁の下着ショーを開催し、テレビや雑誌の取材が殺到するようになった。全国の百貨店から下着ショーの依頼が相次ぐようになり、関西のローカル企業であった和江商事は、消費の中心地である東京市場開拓に攻勢を掛けた。
高島屋との取引実績をきっかけに、三越をはじめとする都内の有名百貨店や一流専門店へと販路を広げ、全国展開への足場を築いていった。57年には社名もワコールに変更した。
58年にはワコールに労働組合が結成された。労使問題に悩んでいた幸一は、北九州門司の小さな商店を、一代で世界規模の石油企業に育てあげた出光佐三の講演を聴く機会を得た。
出光佐三はタンカー日章丸を擁し、53年に英国と抗争して国有化したばかりのイラン石油会社へ極秘裏に単身で渡り、石油を直輸入して世界中を驚かせた立志伝中の人物である。
人間尊重の経営を語る出光佐三の講演に共鳴した幸一は、翌日に緊急役員会を開き、労働組合の要求は全て呑むことを宣言した。反対する役員に対し「もし、社員が法外な要求をして会社を食い物にするなら、そのような社員に育てた経営者の責任」と発言を退けた。
これを聞いた組合は祝杯を上げるどころか、緊急大会を開催し「満額回答に応えて働こう」と採択した。以来、相互信頼の経営がワコールの社是となる。
64年には株式上場を果たし、業容は順調に拡大していった。その後は日本経済の高度成長とともに大衆消費の時代に入った。量販店やスーパーの価格破壊や安売り攻勢のなかで、ワコールブランドを維持するため「いかなることがあっても、バーゲンセールには商品を出すな」との厳命を下した。しかし、急成長する巨大市場を見過ごすわけにもいかず、ワコールの姉妹ブランドとしてウィングを立ち上げた。これは発売と同時に爆発的に売れた。
万博も終わり景気も後退してきた頃に、ノーブラ運動が上陸してきた。社内の沈んだ空気を打破するため、幸一は理髪店に飛び込み頭を丸めてきた。これで社員も目が覚め全社一丸となった。3ヶ月後に発売したシームレスブラが大ヒットして再び成長軌道に乗った。
その後のオイルショックも乗り切ったが、日本の市場は徐々に成熟し、新しい感性が求められるようになってきた。新時代に対応する経営や社内体制の構築が命題となった。
77年になり幸一は、10年後に息子・能交を後継者にして、社長を退任すると宣言した。ある時、幸一は着替えのために自宅に戻った。玄関を入って居間の様子を察した幸一は、靴を脱ぐなりそのまま能交のもとへ歩み寄り、いきなり殴りつけた。「親のすねを囓っている学生の分際で、昼間から友達と酒盛りしているとは何事だ。ここは俺の家だ。文句があるなら一人前になってからにしろ」がんこ親父・幸一の面目躍如たる逸話である。
能交はワコールに入って役員になり、戦後に女性下着だけで急成長したビジネスには不安を感じていた。高齢化した社員の受け皿も必要と考え新規事業を模索した。スポーツカーの製作・ヨーグルト販売・男性化粧品・紳士服販売などを手がけたが、ことごとく失敗に終わった。二代目ボンボンの「お戯れ」と周囲からの風当たりは厳しいものがあった。
87年に父・幸一の後継指名宣言通り、能交が社長に就任した。会長になった幸一は「もう社長になっても大丈夫だろう。これだけ失敗したら、なぜ失敗したか判っただろう。多くの株主・お客様・社員を抱えたこれからは、失敗する事は絶対に許されない。」大正世代である幸一なりの帝王学と、父親としての思いやりが言わせたのだろう。
復員後に粂次郎と幸一が地方廻りをしたように、能交も地方の得意先や売場・支店に足を運んだ。「地方のお得意さんや現場の社員達と話したり飲んだりして、自分自身で情報や感覚を掴んでおけば安心できる。部下の報告と自分が掴んだものを摺り合わせて判断できる」
社長就任5年後の92年に“よせて・あげる”のキャッチフレーズで、グッドアップブラを発売した。女性の胸のラインをより美しく見せる機能を持ったブラジャーは、年間400万枚の売上を記録する大ヒット商品になった。
そのころ、幸一はかって引き揚げ船のなかで自問した答えに汗を流していた。京都商工会議所会頭を努める傍ら、ルーブル服飾美術館で開催したロココ衣装展、京セラと共催した現代日本画展などの文化活動や、京都への恩返しとしてさまざまな要職を引き受けていた。
97年9月に心筋梗塞で倒れ、翌年6月に肺炎を併発、享年77才で人生の幕を閉じた。
世界のワコールを目指して立てた50年計画を、全て前倒しで達成した幸一は、あと2年2ヶ月を残し、最終年度を見ずして永遠のリタイヤであった。
05年の国内婦人下着販売は0.3%減で7年連続マイナスであった。その中にあってワコールは補正機能つき下着の、ヒップウォーカーが計画の2倍以上である70万枚を販売した。
市場シェアは前年比3.8%増の27.1%とダントツ一位である(二位トリンプ・インターナショナル・ジャパン12.8%)。 すでに始まっている秋・冬向け肌着の商戦では、快適ナビが絶好調で73万枚を売り上げている。ワコールの業績と、日本ボディファション協会会長・京都服飾文化研究財団理事長・日本アパレル産業協会常任理事などを務める能交の仕事ぶりは、父・幸一が授けた帝王学の正しさを証明している。
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