ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 116

☆ スクリーンの妖精と衣裳☆

2006.09.12号  


スクリーンの妖精と言われたオードリー・ヘップバーンは、1993 1 20日に結腸ガンで亡くなった。死後10数年を経た現在でも、幅広いファン層を持ち、写真展などのイベントが時々開催されている。アイルランド系イギリス人の父ジョセフと、オランダ貴族出身といわれる母エラのもとで、29 5 4日にベルギーの首都ブリュッセルで生まれた。
5 才でロンドンの寄宿学校に送られ、寂しさと戸惑いのなかで、バレエの道に情熱を燃やしていた。6 才の時に父ジョセフが突然失踪してしまい、父に捨てられたとの思いは、オードリーの心から生涯消すことはできなかった。
10 才の時にオランダへ移住して、母のもとで暮らすようになったが、ドイツ軍の占領下では日々の食料も満足ではなく、チューリップの球根を食べて飢えをしのいだこともあったという。最悪の栄養状態でひっそりと身を沈めて暮らすような時代にも、オードリーの心の中では何時も父ジョセフを追い求めていた。
22才になってオードリーは、運送会社一族の御曹司と恋に落ちて婚約するが、舞台「ジジ」の成功や、「ローマの休日」の大ヒットなど、一躍華やかなスポットライトを浴びることになった時期と重なり、結婚を再三延期し、ついには婚約を解消してしまった。
「麗しのサブリナ」で共演したウイリアム・ホールデンとは、撮影中に互いに惹かれ合っていたが、ホールデンには妻子がいたため、それ以上に進展する事はなかったという。
オードリーが最初に結婚したのは、12才年上のメル・フェラーだった。メルは舞台「オンディーヌ」や、映画「戦争と平和」で共演したり、アンソニー・パーキンスとの共演で、スクリーンの妖精としての魅力を決定づけた「緑の館」では監督をつとめた。
すでに当時は成熟した男性であったホールデンやメルに、オードリーは心のどこかで父ジョセフを重ね合わせていたようだ。このようなオードリーの心情を熟知していたビリー・ワイルダーやウィリアム・ワイラー、スタンリー・ドーネンなどの大物監督達は、オードリーの可憐な妖精ぶりと対比させるとともに、心の襞を包み込んでくれるゲイリー・クーパーやピーター・オトゥール、ケーリー・グラントなどのベテランを共演者に起用した。

オードリーが心の中ではいつも、父を追い求めていることを知っていたメルは、ジョセフを探し出し、64年にダブリンの小さなホテルで再会する事になった。オードリーは娘の動向を知りながら、連絡を取ることも出来なかったジョセフを慮った。時が経ちオードリーが女優として輝かしいキャリアを重ね「マイ・フェア・レディ」旋風が吹き荒れていた頃に、母から父ジョセフが死んだ事を聞かされた。愛しているのに「愛している」と素直に言えない父。それ故に「愛されていないのでは」と不安に思うオードリー。思いのままにならない感情の交錯が、オードリーの人生に大きな影響を及ぼしていた。
そんなオードリーの内なる苦悩のなか、女優としての活躍は世界中のファンを魅了するようになった。「ローマの休日」ではアカデミー賞主演女優賞に輝き、「マイ・フェア・レディ」でも歌唱部分の吹き替えがなければ(吹き替えは同名の舞台を主演し、イライザ役の候補にもなったジュリー・アンドリュースといわれている)受賞したと言われている。
「ティファニーで朝食を」でも、その魅力が十分に引き出されている。ヘンリー・マンシーニの「ムーン・リバー」はオードリーをイメージして作曲したと言われ、映画だけでなく音楽ファンにも、広く親しまれている名曲である。
オードリーは女優として、アカデミー賞・トニー賞・エミー賞・グラミー賞の全てを獲得する活躍であった。しかし、オードリーはどんなに輝かしいキャリアよりも、平凡な普通の家庭生活を望んでいた。
メルとの間にショーンが生まれ、その後再婚した医師アンドレアとの間にルカが誕生した。10才の年の差があり、父親の違う二人の息子はオードリーにとつて夢の結晶であり、最大の宝物であった。「暗くなるまで待って」のクランクアップ後、引く手あまたの大作出演依頼を拒否して子育てに専念し、息子達に与えうる限りの愛情を注いだ。
父親をほとんど知らずに育ち、父に抱きしめられたい、愛されたい、大切にされているという安心感を得たいと、激しく望んだ幼い少女の悲しみ。つまりオードリー自身が渇望していたものを息子達に与え続けた。その後、オードリーはユニセフ親善大使に就任。世界の恵まれない子供達の母となる活動を「45年間もオーディションを受け続けて、ようやく手にした仕事」と語り、引退後はこの活動に持てる全ての時間とエネルギーを捧げた。

54年に公開された「麗しのサブリナ」はシンデレラ・ストーリーの映画である。この映画でオードリーが身につけた黒いカクテル・ドレス「デコルテ・サブリナ」や「サブリナ・パンツ」「サブリナ・シューズ」それに「サブリナ・カット」と呼ばれたヘア・スタイルなどが「サブリナ・ファッション」として世界中で流行した。現在でもファッション関係者には、教科書と呼ばれるほどの魅力満載の娯楽映画である。
『大財閥ララビー家の運転手の娘サブリナ(オードリー・ヘップバーン)は、次男のデビッド(ウイリアム・ホールデン)に幼い頃から恋心を持っていた。でも、プレーボーイの彼には見向きもされずに失恋してしまう。傷心の彼女はパリへと旅立った。2年後に洗練されたセンスを身につけて帰国した彼女は、見違えるような大人の女性に変身していた。すると、今度はデビッドの方が夢中になってしまった。そこに堅物の長男ライナス(ハンフリー・ボガード)までがサブリナの魅力の虜になって・・・』と、こんなストーリーである。
パリ帰りのサブリナの変身ぶりを鮮やかに見せていたファッションは、監督のビリー・ワイルダーが、オードリーをパリに行かせて、自分自身で選ばせた。ユーヴェルド・ジパンシーがデザインした衣裳は、その後の二人にとって重要な出会いとなった。
しかし、これらの印象的な衣裳を提供したジパンシーは、映画のタイトル・クレジットに名前を連ねていない。それは、他の場面で使われている多くの衣裳を担当し、それまでのオードリーの舞台や映画衣裳を担当していたイーディス・ヘッドが、若僧のシパンシーと一緒にクレジットされることを拒否したからだと言われている。その結果、イーディスだけがアカデミー賞衣裳デザイン部門の栄誉を受けることになってしまった。

ジパンシーは 27年にパリで生まれた。10才の時にパリ万博で、展示品のデザインを見てデザイナーを志す。数ヶ所のメゾンを経た後の 51年に、24才で初のコレクションを開き、斬新なアイデアとシャープな感性が絶賛され「モードの神童」と呼ばれた。
52年に 25才でジパンシー社を設立する。55年には「自由なライン」として発表したウエストもヒップラインもないシュミーズ・ドレスが革命的衣裳として大反響を呼んだ。
56年にレディス・ウェアーラインを発表。62年に香水を、72年に男性化粧品を展開し、73年にはメンズ・ウェアーラインを発表した。78年にはデ・ドール賞を受賞する。
ユーヴェルド・ジパンシーは95年の、オートクチュール・コレクションを最後に引退した。後任には60年にジブラルタルで生まれた弱冠35才の、ジョン・ガリアーノが抜擢された。ジョンは現在クリスチャン・ディオールのデザイナーを務めている
「麗しのサブリナ」によりジパンシーは、ファッション界に一大旋風を巻き起こした。79年に公開された「華麗なる相続人」(89年に公開された次回作「オールウェイズ」が、オードリー最後の作品)を担当するまで、多くの映画でオードリーの衣裳を担当した。
ゲイリー・クーパーと共演した「昼下がりの情事」(57年公開)では、少し控えめなイメージであったが「シャレード」(63年公開)や「おしゃれ泥棒」(66年公開)では、映画のストーリーや共演の大物男優達は二の次で、オードリーの魅力とシパンシーのファッションだけが話題となった。特に「パリで一緒に」(63年公開)では、100着ほどのジパンシーの衣裳を用意して、オードリーがその中から好みの衣裳を身につけた。劇中劇のシーンでは、その登場人物までもオードリー自身が演じていた。つまり、オードリーをモデルにして、ジパンシーの世界を演出したファッション・ショーの映画となっている。なかでも水色のナイトガウン姿は、可愛さと艶っぽさが演出されており、妖精の極致であった。
共演したウイリアム・ホールデンやトニー・カーチスなどは霞んでしまっていたが、映画は世界的な大ヒットとなった。興行成績は大成功を収めたと同時に、ジパンシーも世界的なデザイナーとして大ブレイクしたのは言うまでもない。




<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー