江戸後期の天保5年(1834年)、武蔵の国埼玉郡千疋の郷(現在の埼玉県越谷市千疋)の、槍術の道場主であった大島弁蔵が、この地で栽培した果物と野菜類を商う店を、江戸葺屋町(現在の日本橋人形町)に構えた。現在の千疋屋総本店である。
当時は果物のことを「水くわし」と呼んでいたため、「水菓子安うり処」(みずくわしやすうりどころ)の看板を掲げたのが、千疋屋の始まりだった。柿・ぶどう・みかん程度のものだったが、大いに繁盛した。
元治元年(1864年)の暮れに二代目・文蔵が店を継いだ。文蔵の妻・むらが、茶の湯の師匠として知られた渡辺治右衛門に茶の湯奉公した縁で、一世を風靡した浅草山谷の大料亭・八百善の出入り業者となった。ここに出入りする事で各界の寵を受け、文蔵は徳川家の御用商人となった。この頃に今日まで受け継がれている高級化路線の方針が定まった。慶応3年(1867年)に三代目・代次郎が生まれた。その後、代次郎は現在の本店地である日本橋本町(室町)に店を移した。代次郎は経営の近代化に心を砕き、当時としては最新式の三階建洋館を店舗とした。バナナやオレンジなどの珍しい果物を、外国の船員達から購入し、輸入果物の先駆けとなった。また、国産果物の品質改良にも心血を注いでいた。
明治20年(1887年)に四代目・代次郎(旧名・文一郎)が生まれた。四代目は三代目の方針を、
さらに積極的に押し進め、大正14年(1925年)には銀座松屋に、フルーツパーラーを出店
した。当時アメリカでソーダ水を売る「ソーダファウンテン」が、流行っているのを雑誌で見てヒントを得た。四代目は「フルーツポンチ」の考案者でもあった。
千疋屋の当主は四代目以降「代次郎」を世襲名としてきた。「当主の仕事は、自分の代で暖簾を、さらに輝かせ、次の代へつなぐもの」との意味を込めた世襲名である。昨年の9月1日、170年に渡り「果物文化」を伝え続けてきた千疋屋総本店の、新本店が日本橋三井タワー1階・2階にオープンした。千疋屋総本店の新本店は、歴史のある老舗でありながら、新しい趣向もふんだんに盛り込んだ「華やかさ」が表現されている。
果物の販売エリアは、「フルーツミュージアム」をキーワードに、コンテンポラリーなデザインのなかに、木や石などの素材が持つ暖かみや、懐古的イメージも加えている。店内には昭和初期の看板を、額装して展示するなど高級感を醸し出しており、家具類にはマンゴーやココナッツの木を使うなど、遊び心も演出している。
オープンと同時に飲食店舗が、千疋屋ブランドの個性を表現している。1階にはフレッシュフルーツをたっぷり使ったスゥイーツが楽しめる「カフェ・ディ・フィエスタ」があり、
2 階には世界のフルーツばかりでなく、オリジナルなデザートも取り揃えた「千疋屋フルーツパーラー」がある。
「フルーツを食べる」という発想から生まれた「フルーツサンドイッチ」や、味わい深く気軽に食べられる「マンゴーカレー」などのランチから、本格的なディナーコースまで楽しめるレストラン「デーメテール」がある。この名はギリシャ神話に起源をたどる豊穣の女神の名前が由来となっている。最も古い果物専門店である千疋屋総本店は、日本を代表する総合果物店である。最高級の果物を扱っているだけに、価格も最高級である。千疋屋と言えば、桐箱入りのマスクメロンがイメージされる。マスクメロンは麝香(じゃこう=Musk)のような強い香りのするネット系メロンである。
千疋屋では契約農家に依頼して、一つの茎についた実から、一つだけ選別して育てる「一茎一果」の栽培方法で作られたメロンを仕入れている。仕入れた最高ランクの、果物の全てを店頭に出しているわけではない。千疋屋の定めた品質基準に満たない半数近くは、ハネモノとして除外している。そのようにして店頭に並べても、食べ頃が過ぎてしまうと、店頭から下ろしてしまうため、高価にならざるを得ないのである。
このように、果物は「日持ちのしない商品」である。最高級品だけを厳選し、その食べ頃を提供するのだから、極めて難しい商いである。そして、万が一にも食味の落ちた果物を売ってしまえば、170年の歴史が一瞬にして崩壊してしまうのである。
価格が高価なだけに購入者層のレベルも高く、商品品質に対するこだわりは勿論のこと、接客レベルをはじめ、店舗や店舗内の空間に至るまで、全てに高い品質レベルを提供しなければならない。そして、時代感覚や諸施策など高い経営力も代々受け継がれている。
これらすべての品質の高さが、老舗ブランドの価値を支え続けている。
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