資生堂は 1872年に、銀座で洋風調剤薬局として開業した。1897年に化粧品事業に進出し、現在では国内最大手、世界でも第4位の化粧品メーカーである。
創業者の福原有信から始まり、初代社長に就任した福原信三のあとも、福原家の家業として成長し、戦後には復興した日本を、象徴するトップブランドとなった。国内市場では業界トップの座に君臨し続けているが、日本経済が苦境に陥ったバブル後の10年は、資生堂にとっても「失われた10年」であった。外資系企業に押されて、低下する一方の業界シェア、若者離れで「おばさんブランド」「墜ちた老舗」と云われ、数年前までは深刻な病魔に冒されていた。企業内改革は何時も「掛け声倒れ」に終わり、マーケットが資生堂につけた渾名は「オオカミ少年」とまで揶揄された。
業界のトップブランドとして、約130年に及ぶ歴史の重みと、驕りが改革を妨げていた。
「美」を売る企業イメージとしての建前、社内や小売店との摩擦を恐れる「事なかれ主義」の跋扈、規制産業が持つ特有の「ぬるま湯」的体質、無責任な「問題の先送り・後戻り」等々。そして、社内では「過去の成功体験」が亡霊となって染みつき、根拠の無い「何とかなるさ」という無責任さと楽観論が蔓延り、「どうせ会社は変わらない」という無力感と脱力感が社員達の心を覆っていた。決算上の数字では資生堂の苦境は、あまり顕在化されていなかった。しかし、目先を取り繕う方策ばかりが延々と続けられ、実体は企業崩壊が目前に迫っていた。
確たる戦略も建てずに多発する商品ブランドは、永続するブランドには育たず、すぐに次のブランドを発表しなければ、消費者の関心を得られない悪循環に陥っていた。期末に小売店へ棚卸しの応援に行くと、若手社員が知らない商品ブランドが、ダンボール箱から続々と出てきた。商品ブランドが多すぎて管理できない状態になっていた。
月末・決算期末になると、営業マンは小売店に対する押し込み販売など、目先数字の辻褄合わせが仕事になり、本来おこなわれる筈の前向きな営業活動には手が廻らなかった。
美容部員にも売上ノルマが課され、美容に関するアドバイスやカウンセリングよりも、消費者に対する販売が優先された。女性向けの雑誌記事やインターネットの普及で、消費者の美容に対する知識が格段に膨らんだ今日において、美容部員の押し売り販売的なアドバイスは、消費者をより一層遠ざける結果となってしまった。
危機感を抱いた 6代目福原義春社長は、01年6月に創業家と血縁のない池田守男新社長にバトンタッチした。池田新社長は歴代 5人の社長に、秘書や総務の管理部門で仕え、会社の内情は熟知していた。社長を受けるからには「会社を新しく生まれ変わらせる」ことが使命であると決意した。舵取りを任されて最初に着手したのは、仕組みを「モノ」中心から、「人」中心に変えることであった。20世紀後半はモノの時代で、新商品を出せば売れる時代であった。社会が激変する中で、社内は時代遅れのシステムに馴れきっていた。
市場が変化すると古いシステムでは、不良在庫を抱える結果となった。在庫を一掃するためには、時代に合わせたシステムにつくり変える必要があり、事態は緊急を要していた。
池田社長は、一番重要な場所は「お客様が、商品や商品説明をするビューティコンサルタントと出会う店頭である」との考えから、「店頭基点」を打ち出し経営改革に着手した。女性が肌荒れを気にする季節になってきた。化粧品店などの店頭では、秋冬用の化粧品が華やかさを彩るようになった。20才以上の女性を対象に、日ごろ購入する化粧品について、消費者モニター調査が行われた(讀賣新聞とNTTレゾナントが実施 複数回答)。
化粧品を日頃どこで買うかの設問に対し、ドラッグストアと回答した人が 61%、通信販売 46%、百貨店 26%、化粧品専門店 18%の順となった。ドラッグストアは 40才代を除く各年齢層で最も割合が多く、20才代では 74%に達している。通信販売では 40才代の割合が 55%と最も多かった。
化粧品を買う際に重視することは、安く買える62%、立ち寄りやすい場所48%、品揃えが豊富39%、手にとって自由に選べる35%となっている。一方、美容部員や店員からアドバイスやカウンセリングを受けられることを重視している人は15%、他の店では手に入らないことを理由にした人は14%にとどまった。従来、化粧品は対面販売のイメージが強かったが、専門的な知識や希少価値よりも、自分の意志で自由に選べることや、便利さが好まれる傾向にあり、それが購入場所の選択にも現れている。
化粧品に関する情報の入手方法では、インターネット50、テレビCM39、雑誌の記事や広告36%となっている。消費者が詳しい商品情報を、自分で簡単に入手できるようになっており、購入時の煩わしさがないドラッグストアや、通信販売が人気につながっている。
使っている化粧品を選んだ理由では、自分の肌に合っているが66%と圧倒的に多く、友人や家族の薦め、ネットで話題になっているなど、口コミも選択基準のようだ。
特にこだわりや関心を持っている化粧品は、化粧水52%、ファンデーション35%、クレンジング34%と、基礎化粧品が上位をしめ、口紅15%、マスカラ14%、アイメイク11%とメイキャップ化粧品の割合が低くなっている。化粧の基本は、やはり「お肌」!!池田社長にとっても、永年に渡り社内に染みついた垢や、会社と福原家とのしがらみを完全に払拭する事は至難なことであった。04年に経営改革のバトンは、前田新造新社長に引き継がれた。14人抜きでトップに就任した前田新社長は「資生堂という会社を、いったん壊して造り直そう」と社内に訴えた。「変わろうとしない企業体質」「立ちはだかる抵抗勢力」を相手に、前田新社長と側近達は「老舗企業の大改革」の先頭に立った。
前田社長は10月23日午後、第8回日経フォーラム「世界経営者会議」で講演した。「ブランドは、顧客と当社をつなぐ役目を果たす戦略の柱」との考えを示したうえで、「売上の低迷などで社員が疲弊する、負のスパイラルを脱するには、ブランドを太く強く育てることが必要だった」と、自らの経験を踏まえて講演した。
現在、資生堂ではシェアナンバーワンのブランドを育てるメガブランド戦略を打ち出しており、「大切な経営資源であるブランドを輝かせれば、資生堂を輝かせることにつながる。そのためには社員が輝くことが必要だ」と強調している。
これまでの自社の事例として、「これまではブランドの数が多く、一つ一つの戦略が見えにくかった」と分析し、「ブランドの集約にはリスクも伴うが、ブランドの顔や価値が見えるようにするためにも、限られた経営資源を集中する事が不可欠」と語り、消費者の多様化に、ブランドの数で対応するのでなく「そのブランドが、顧客ニーズにあった情報や価値を発しているか」を重視する姿勢を示した。さらに「時代の空気を読みながらの、ブランド価値づくりが資生堂に課せられた使命」であると語っている。
今年1月末に花王が産業再生機構から、約4000億円を投じてカネボウ化粧品の、株式を取得して傘下におさめた。現在、カネボウ化粧品の事業規模は花王の2割程度である。
化粧品部門だけをとってみると、カネボウ化粧品は12.4%のシェアを持ち、花王の5.9%を加えるとトップシェア資生堂の17.5%を上回る規模となる。
花王は 25期連続増収増益を断念してまで手に入れたカネボウである。花王の効率経営が注入され、企業体力にモノを言わせて攻勢に出られると、資生堂も安閑としていられない脅威な存在となる。このような危機感が資生堂の改革を後押ししていることも事実である。
06年 3月期の連結売上高は 6709億円(前期比 4.9%増)、営業利益 388億円(前期比 37.8% 増)となっており、07年 3月期の見通しは連結売上高 6850億円(前期比 2.0%増)、営業利益 430億円(前期比 11.0%増)と、老舗企業の大改革は順調に進んでいるようである。
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