グッチオ・グッチは1881年にイタリアのフローレンスに生まれる。父親のガブリエロ・グッチはフィレンツェで「ガブリエロ」という麦藁帽子の製造業を営んでいたが、会社経営にはあまり熱心ではなかった。1898年頃、父の不甲斐なさを見たグッチオは、イギリスに渡って一旗揚げる決意をし、蒸気船の機関助手として働きながらロンドンにたどり着いた。ロンドンでは最下級の労働者であったが、運良く最高級ホテルのサヴォイホテルで、皿洗いの職を得ることができた。やがてグッチオはエレベータボーイに昇格した。
サヴォイホテルは王侯貴族達の御用達ホテルであったため、低賃金であったがチップには不自由する事がなかった。それよりも、王侯貴族を始めとする上流階級の人達の、立ち居振る舞いや持ち物、物の考え方を間近で見たことが、のちに大きな財産となった。
グッチオが学んだ最たる事は「原価は何も意味を持たない。むしろ商品の値段が高ければ高いほど、それを所有することの価値も高くなる」ことであった。
ロンドンで多くの事を学びフィレンツェに帰ったのは1901年であった。帰国後はアンティークショップなど幾つかの商店で働いていたが、第一次世界大戦で徴兵される。大戦後は故郷に帰り、レザークラフトの会社に迎えられた。ここで革の選別方法やメンテナンスを覚え、ローマ支社の支配人に抜擢されるや、経営手腕を発揮することになる。
1921年にグッチオはフィレンツェのビグナ・ノバ通りに自分の店を持つ。22年にパリオーネ通りに 2軒目の店を開き、翌年には「GUCCI」の店名を掲げた。
グッチが主に扱ったのはイギリスから輸入した鞄と、その修理であった。この鞄の修理によって壊れやすい個所や、どのように造れば良いかなど、旅行鞄の作り方を研究する事ができ、使い易く丈夫な鞄を造る術を学ぶことができた。このようなノウハウを身につけたグッチオは、自らの商品の品質を保証するために、世界で初めてデザイナーの名前を入れて商品を発売した。グッチオ・グッチの考案した、自らの頭文字をあしらったダブルGのモノグラムは「ブランド商品の元祖」となった。
フレンツェ伝統の革職人達の技術により、小規模な旅行鞄(ラゲージ)と馬具の高級革製品は品質の高さが大評判になり、一躍高級ブランドとしての地位を確立する。
しかし、イタリアは35年に国連による経済制裁で、他国との貿易が禁止された。皮革の入手が困難となったグッチの経営は危機を迎えることになる。グッチオと息子のアルドは、在庫している皮革を減らさないように、皮革以外の素材を組み合わせた製品を考えた。
苦肉の策として完成させたのが、竹と革を組み合わせた「バンブーバッグ」であった。これが大反響を呼び、その後に経済制裁が解除されたこともあり、再び快進撃が始まった。
38年にはローマのコンドッティ通りに店をオープンさせ「最上の伝統を、最上の品質で、しかも、過去の良い物を現代に反映させる商品造り」をコンセプトとした。
40年代後半にロンドン、パリ、50年代にニューヨーク、ロサンゼルス、60年代にはバンクーバー、東京、ケープタウンと海外市場に進出した。
この頃、アルドがハリウッドで映画関係の仕事に携わったことで、グッチ製品を映画の小道具として使い、アメリカ女性の間で人気を得るようになった。クレオパトラに主演したエリザベス・テーラー、ローマの休日に主演したオードリー・ヘップバーンなどのハリウッドスター達も愛用者になった。56年にはグレース・ケリーの為にデザインされた花柄の「フローラ・シルク・スカーフ」が登場した。これが縁でモナコのレーニエ皇太子との結婚式では、招待客への贈り物はグッチのスカーフが選ばれ、シックなハリウッドスタイルの代名詞ともなった。故ジョン・Fケネディ大統領夫人だったジャクリーヌはグッチのショルダーバッグを愛用。そのバッグは99年に再登場して「ジャッキーバッグ」の名で親しまれ、クラシカルでモダンな定番アイテムとして人気が再燃した。ヨーロッパの有名ブランドが直営店に、カフェを併設するケースが増えている。洋服やバッグだけでなく、華やかな雰囲気の空間や飲食を通して、ブランドの総合的なイメージを伝えようとしている。
10月末に銀座の旗艦店を増床したエルメスは、2階フロアに世界で初のカフェを開いた。
イタリアのバッグメーカーであるフルラ銀座店でも、地下 1階売場にカフェを併設した。
海外ではブルガリやベルサーチがホテル経営に乗りだし、アルマーニはインテリア関連の店を開くなど、有名ブランドがライフスタイルを提案する傾向が世界的に目立っている。
グッチは今月 3日にオープンした「グッチ銀座」では、銀座の街並みを見ることができる店舗の 4階をカフェにした。グッチではイタリア・ミラノに次ぐ 2店目のカフェである。
グッチが靴やバッグに用いてきた竹のモチーフを壁にあしらい、金色の壁面が華やかさを演出する。ブランドのロゴマークをあしらったチョコレートも販売している。
目的は「買い物の合間に、優雅な空間でブランドの持つ雰囲気にゆったりと浸って貰う」こととか。スパークリングワインやジェラードの盛り合わせが1200円と、少し高めの価格であるが、優雅な雰囲気に浸れることを思えば、リーズナブルな価格かも知れない。グッチが世界的な富とステータスのシンボルになったのは、二代目アルドの功績であった。創設者で父親でもあるグッチオはアルドの拡大路線には反対であったが、アルドは反対を押し切り成功へ導いた。グッチオは息子の成功を見ながら、53年の夏に享年72才で他界した。グッチオ亡き後はアルドが経営の中心となった。65年にビットモカシン、68年にレディスウェアーを発売し、70年代には香水にも進出した。
当時のグッチはグッチオの四人の息子、アルド、バスコ、ウーゴ、ロドルフォによって運営されていたが、80年代になり孫達が会社の経営に参画するようになってから、親族間で骨肉の争いがおきる。経営路線の違いで衝突したアルドの息子パウロは父を脱税で告訴し、アルドは逮捕される事態にもなった。そんな中で一族の後継と目されたのは、ロドルフォの息子マウリッツィオであった。パウロは父親の影響力を排除するため、持株をマウリッツィオに譲渡。アルドらのファミリーは対抗して、アラブ系の投資グループ・インベストコープ社に株式を売却し、次第に争いはエスカレートしていった。
三代目後継は仕事熱心であったマウリッツィオが選ばれ、沈没寸前のグッチを託された。
マウリッツィオはグッチ復興を願い 89年に、ドーン・メロー女史を副社長兼クリエイティブディレクターに招き再建に奔走した。翌年にレディスウェアーのデザイナーとしてトム・フォードが入社し、その後アクセサリー、ギフトなど11ラインものデザインを手がけ、 91年には中断していたウエアー・コレクションも復活させた。
しかし、病んでいた船の痛手は大きく、93年にマウリッツィオは経営権をインベストコープ社に譲渡。グッチ家は70年に及ぶファミリー企業としての体制に終止符を打った。
その後もグッチ家の悲劇は続き、二代目アルドは既に90年に死去しており、95年にはマウリッツィオが、二年前に離婚した元妻に射殺され、パウロも死去したことで、グッチ家の直系は絶えることとなった。
インベストコープ社はブランドの再興に着手し、グッチグループNV社が設立された。やがてトム・フォードのデザインは人気を集め、93年には 2億ドルだった売上が99年には12億ドルまで拡大した。この間にインベストコープ社は 2回に分けて株式を売却し、グッチはイタリアのファショッン界では初の株式を公開する企業となった。
この株式公開でプラダがグッチ株式を9.5%取得し、これをLVMHに譲渡。その後LVMHは最大 34.4%まで取得して傘下に収めようとした。グッチはフランス流通大手のピノー・プランタン・ルドゥートと資本提携で対抗し、LVMHが手を引くことで決着した。
一方のグッチは99年にセルジオ・ロッシ、00年に宝飾メーカーのブシュロンを買収し、同じく00年にイブ・サンローラン、01年にはアレキサンダー・マックイーンの株式を51%、バレンシアガブランドの株式 91%を取得した。さらに、皮革メーカーのボッテガ・ヴェネタも買収して傘下に収め、拡大路線に弾みをつける。
トム・フォードは「リアルなクロージングを、クリーンなスタイルで表現する」をコンセプトに、黒アイテムを武器にグッチの最盛期を創りあげ、2003年にリタイヤした。
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