マツダが完全復活に向けて加速している。マツダは1996年3月期に82億円の赤字となり、経営危機に陥った。同年5月に米・フォードに支援を仰ぎ、フォードは出資比率33.4%を取得してマツダを傘下に収めた。6月にはヘンリー・ウォレスが社長に就任して、フォード主導による経営再建が始動した。
工場閉鎖や人員削減のリストラ策、下請け部品メーカーの整理統合など、新車をまともに開発できないようなどん底状態となった。マツダ70余年の歴史の中で、初めてマツダブランド消滅の危機に追い込まれていた。復活の歩みも遅々として進まず、一般社会の認識では、フォード傘下で苦しむ広島の負け組会社との印象であった。
99年秋・東京モーターショーで、マツダのブース中央に「マツダの魂」とまで言われた、ロータリー・エンジンを搭載した4人乗りスポーツカーREエボルブが展示された。
マツダの技術陣は過酷な経営環境の中で、着実に技術の継承と足場固めをしていた。これを見た社員達、マツダ車のユーザー、そして下請け部品メーカーにも意識の変化が芽生え、マツダ衰退の潮目が変わったことを認識した。フォードが主導したマツダの経営改革では、火の車である財務体質と、マツダブランドの建て直しが最大の主眼であり、フォード流のリストラ策が断行されていた。そのことでマツダはフォードによって、支配されているような印象を持たれていた。しかし実体は、フォード経営陣はマツダ社員の意識の高さや技術力、生産改善能力を高く評価すると共に、フォード自体がマツダの力を必要としていた。故に多額の出資を引き受け、再建社長を送り込んできたのである。それと、フォードもマツダも互いに創業者が一代で築き上げた企業として、フォードはマツダに対して敬意を表し、愛着のある真摯な態度で接していた。
フォードが送り込んだヘンリー・ウォレス、ジェームズ・ミラー、マーク・フィールズ、ルイス・ブースの代々社長は、マツダ創業者である松田重次郎の命日と、ロータリー・エンジン生みの親である松田恒次の命日、そしてお盆と、欠かさず年 3回は松田家の墓参に訪れていた。
7年間にフォード出身社長は4人を数えたが、フォードの単なる人事異動ではなく、その時々のマツダの経営状況により、最適で有能な人材を着任させていた。それが証拠にマツダの社長を務めた4人の人材は、デトロイトにある本社に戻る時には全員が昇進していた。
自動車会社の再建・復活では、カルロス・ゴーンの鮮やかな手腕で、見事に甦った日産がマスコミなどで大きな話題となったが、マツダの再生は殆ど話題にもならなかった。
だが、着任した4人の社長と、フォード本社の後方支援の連携は、見事なまでにマツダを再生した。現在のマツダは立ち直っただけでなく、フォードグループにとって、なくてはならない存在となっている。フォードの世界中の工場に、マツダの生産技術が導入され、品質改善を進めている。下請け部品メーカーと協同で取り組む計画順序生産や、混流生産をフォードは積極的に導入し、マツダをベンチマークにしている。45年8月6日午前8時15分、人類史上初の原子爆弾が広島に投下された。原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていないという。同年12月末には14万人が死亡したと推計されている。
自動三輪車メーカーであったマツダは、広島にあって奇跡的に原爆の被害を免れた。しかし、多くの社員やその家族が、尊い命を奪われてしまった。マツダで開発に携わっていた広島生まれの、山本健一も妹を原爆で失っていた。
原爆で家族を失った男達が、悲しみを乗り越え故郷復興の願いを、夢のエンジンと言われたロータリー・エンジン開発に託した。従来のピストン式エンジンと違い、小型で高出力であるロータリー・エンジン開発に、山本健一(のちに社長に就任した)の下へ47人の若手技術者達が集結し「ロータリー47士」と呼ばれた。
ロータリー・エンジン開発に、世界で初めて成功したマツダであったが、開発過程では次々と発生する難題に、開発は困難を極めていた。摩擦に因ってできる「悪魔の傷跡」を始め、克服が不可能とされた技術的課題を、意地と執念で解決し、そして完成させた。
世界中から絶賛されたロータリー・エンジンであったが、その後2度にわたって襲来したオイルショックが全てを変えてしまった。ガソリンを大量に消費するエンジンは「悪魔のエンジン」との汚名を着せられ、今度は世界中から見向きもされなくなった。
失った信頼を取り戻すため、技術者達は燃費改善に取り組むとともに、世界一過酷なレースと言われる「ルマン24時間耐久レース」を目指して汚名挽回をはかった。
山本の後を継いで開発部隊を率いていた、47士の一人である達富康夫は、汚名を晴らしたい一心と、会社の窮状を救うため、開発チームを叱咤し続けた。レーシング・チームではドライバーの寺田陽次郎を中心に、周囲の反対を押し切ってレースに臨むことにした。
しかし、完走さえも儘ならぬ惨敗が10年以上も続いた。レースで勝つ以外は汚名を晴らす道は無いと信じた達富は、決して諦めることなく挑み続けた。やがてチームの思いは、91年のルマン制覇という輝かしい偉業に繋がっていった。
この逆境にも負けない不屈の精神が、脈々と受け継がれているマツダのDNAは、今日のマツダ復活の底辺に流れている。マツダの株価が堅調に推移している。今年の年初は548円だったのが、11月27日時点では786円と43%の上昇である。11月2日に発表した07年3月期決算の営業利益は、期初予想の1350億円から1480億円に上方修正し、6期連続の増収増益の見通しである。
同月6日にはバブル崩壊後の最高値を更新して826円をつけた。
業績好調の背景にはドルやユーロに対する円安がある。マツダは国内生産台数に占める輸出が73%にもなることから円安効果は大きく、今後も円安傾向が続けば株価も1000円の大台に乗せる可能性を指摘するアナリストもいる。最近のマツダは円安という他力だけでなく、商品力が向上し、無理せずとも販売が伸びるという、自力が好循環に入っている。
一方で経営不振に陥っているフォードとの関係では、フォードを下支えする役割が格段に高まっている。世界販売が年120万台程度のマツダが、単独で生き残るのは難しいこともあり、今後の世界再編でカギを握る新興国開拓や、環境技術でフォードとの連携は欠かせないのが現状である。井巻久一社長は「マツダが苦しい時、フォードが助けてくれた。フォードが苦しんでいる今、マツダとしても役にたちたい」と提携継続を強調している。
フォードの経営不振という不安定要素はあるが、マツダは復活の基盤固めから積極拡大路線へハンドルをきっている。
今期を最終年度としていた中期経営計画では、営業利益と財務の目標を前期で達成している。次期中期経営計画では、すでにフォードとの合弁工場があるタイと北米で、新工場建設を盛り込む予定である。タイの新工場ではマツダ主導で開発した小型車の次期「デミオ」を、マツダの生産技術を基盤に生産する予定である。またトヨタやホンダが営業利益の6割を稼いでいる北米市場では、マツダも積極果敢にアプローチする計画を盛り込む。
このように次期計画では、成長戦略が複数案盛り込まれる模様で、どん底を見たマツダが苦節10年を経て、完全復活を世界にアピールする狼煙となりそうである。
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