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アンドルー・フィリップ・クナナンは美貌のゲイだった。誰からも愛されたいという強い願望をもったゲイだった。それ故、初めの頃は相手を選ばないゲイだったという。92年頃からクナナンはサンフランシスコで、交際相手を次々と乗り換え、次第に金持ちを選ぶようになった。男たちはクナナンが好きなだけ使える、クレジットカードも与えた。95年、クナナンはラホーヤの大富豪の家で、住み込みの秘書になった。リッチな日々が毎日続き、パリへの豪華な旅行にも連れて行ってもらった。この頃になるとクナナンは高級社会の人達と、異常性欲者達が近い距離にいることを嗅ぎつけていた。97年、クナナンはエイズを心配するようになったが、相変わらず異常な性欲だけは変わることがなかった。さらに男とベッドを共にして行為に耽りながら、相手の喉元を絞めつける刺激を欲するようになった。そして、その性癖は日常と化していった。4月に最初の犠牲者がでた。5月に2人目が、さらに3人目も殺害された。高級社会での出来事に、FBIや警察が動き出した。4人目の犠牲者が出たのは、それからわずか1ヶ月も経たない頃であった。7月15日、その世界では誰もが知っている富める男が、サウスビーチにあるオーシャン・ドライブで、ニュース・カフェまでの散歩を楽しんでいた。それをクナナンが物陰からじっと見張っていた。そしてその男が豪邸の門に戻って来たとき、クナナンが声を掛けて言い争いがおきた。クナナンは磨き終えたばかりの、銃を取り出して男の頭部に向けて定めた。発射された2発の弾丸は、男の頭蓋骨を散らすには充分であった。この衝撃的な殺し方は、処刑を意味するらしく、51年に渡る男のサクセス・ストーリーは終わりを告げた。クナナンがいたホテルには、ファッション雑誌が山のように残されており、クナナンは逃避行の末に自らの命を絶った。それ故、この男を殺した真の理由は謎のままであるが、ベッドを共にすることを、拒否された腹いせに殺したと噂されている。クナナンと殺された5人のすべてが、ゲイ社会と深く関わっていた事だけは判明している。
ジャンニ・ベルサーチはダイアナ妃やエルトン・ジョン、スティング達と、別な集まりもつくっていた中心人物で、世界を股にかけた超社交人であり、超有名人でもあった。ベルサーチは90年にオペラ「カプリッチョ」終演後に、スターズ・レストランでクナナンに逢っている。ベルサーチは、こうしたレセプションには必ず、ベルサーチ・ブランドのなかでも最高級の洋服を着て、美男を連れてあらわれていた。それがベルサーチのスタイルだった。二人は数日後にも、ゲイが集まるナイトクラブで再会している。サンフランシスコはゲイ達のメッカでもあるのだ。ベルサーチは南イタリアのレッジョ・ディ・カラブリアという、マフィアに牛耳られていた町で、少年期からホモセクシャルな快感に目覚めて育った。やがて、ファッション界に君臨するようになると、彼のデザインしたドレスは、女性を性的玩具にするものとの非難がわきおこった。これはベルサーチが少年期に、売春宿の近くで育ったことと関係があったとされる。ベルサーチ・ブランドは高級売春婦の代名詞とされていたのである。ベルサーチ自身は一度も、そんな批判を気にすることも、臆することもなかった。マドンナ、ティナ・ターナー、シルベスタ・スターローン、マイク・タイソン、フェイ・ダナウェイ達が、彼のデザインした衣裳で着飾った。これでは非難する方が負けである。ライバルのジョルジオ・アルマーニ(既号131.モードの帝王)とは異なる路線で、アメリカに受け入れられたのだ。しかし、ベルサーチにはマフィアに支えられているとの噂が、常につきまとっていた。一説にはマフィアに怯えて暮らしていたとの話もあり、何れにしても実際にマフィアとの交流があったのは事実ようだ。97年7月5日、ベルサーチはパリのリッツホテルで秋冬コレクションを発表した。その数日後にマイアミに飛び、オーシャン・ドライブの大邸宅に滞在した。このあたりはハリウッド・スターと、ベルベット・マフィア(両性愛者達のこと)がたむろするところで、この大邸宅はベルサーチが、贅の限りを尽くした王宮であった。そのころ、警察の目を逃れたクナナンは、すでにオーシャン・ドライブに潜入していた。FBIはクナナンを指名手配しており、その筋のナイトクラブも捜査していた。7月15日、クナナンはホテルで髭の手入れをし、40口径のピストルを磨き、それまでに調べ上げたベルサーチの行動に従い、意を決してホテルを出て行った。この話は、「ベルサーチを撃った男」を要約したものである。98年に、ウェンズレー・クラークソンが、実話にもとづいて書いたベストセラー小説で、副題は「売春夫の連続殺人魔VSファッション界の帝王」となっている。同作品は総製作費約500万ドルをかけて映画化され、ベルサーチ役にはマカロニ・ウェスタンで、日本にもファンの多いフランコ・ネロが演じた。洋版であるがDVDも発売されている。
ジャンニ・ベルサーチは1946年12月2日に生まれた。母親がモード関係の仕事をしていたことで、子供のころからファッションに興味を持っていた。72年に「ラガシン」や「ジェニー」のデザイナーに抜擢される。75年に「コンプリーチェ」レザーウェアーのデザインを手がける。78年に独立して自らのコレクションを発表。ミラノのスピーガ通りにショップもオープンさせ、シンプルだが個性の強い美しさを哲学にして、ミラノの最高峰に君臨するようになった90年代にはミラノの3Gとしてジョルジオ・アルマーニやジャンフランコ・フェレと共に、ミラノのファッション界を牽引。82年にはイタリアの「ゴールデン・アイ賞」の第一回受賞者となる。83年、アメリカの「カティ・サーク賞」を受賞。88年、「スタンレー・マーカス・アワード」を受賞。90年にはパリのホテル・リッツで、初のオートクチュール・コレクション「アトリエ・ベルサーチ」を発表。95年には映画「ジャッジ・ドレッド」の衣裳を手がけた。華やかで芸術的なデザインは数々の美術館で、現在も回顧展が開かれ多くのファンがいる。
ジャンニ・ベルサーチの死後は、3兄妹の末っ子であるドナテラ・ベルサーチが継承している。ドナテラはフィレンツェ大学の学生の頃から、ベルサーチ社でデザイン活動をしており、卒業後はベルサーチ社の公告キャンペーンの仕事からスタートした。88年の春夏コレクションから、プレタポルテ、オートクチュールともに引き継いでいる。93年にはヘッドデザイナーに就任し、「ベルサーチ・ヤング」として子供服ラインを発表した。現在はすべてのブランドを統括するチーフデザイナー兼副社長となっている。59年生まれのドナテラは色黒・長髪で、バイタリティに溢れ、尖った色気を発散する、今年48才になるイケイケのプリティ・ウーマンである。ジャンニがオペラに情熱を傾けたようにドナテラは現代音楽をショーに取り入れている。コレクションではボーイ・ジョージがDJを担当し、ナオミ・キャンベルらのスーパー・スターがモンロー・ウォークで登場する。その内容は派手でセクシーで、華麗な色彩に彩られ、見ていて楽しくなるコレクションを展開している。05年にはテーマを「オフィスの女性Women in the Office」として、マドンナをキャンペーンフォトに起用した。撮影は故ダイアナ妃の生き生きとした素顔を撮り続けた、ベテラン写真家のマリオ・ティスティーノが担当。そして「彼女は全ての世代の女性の憧れであり、独特のスタイルを持ち、このブランドと私の永年の友人でした」と語っている。余談になるが、マドンナにはモデル料として1050万ドル、2年間はベルサーチのウェアーを無償提供される大特典がついていたそうである。昨年の広告塔はデミ・ムーア、そして今年はハル・ベリーが選ばれた。撮影は同じくマリオ・ティスティーノが担当した。ファッション・ブランドのモデルはギャラが良いことと、お気に入りのファッションが無償提供されることが多く、ハリウッド・スターには超人気だとか・・。ジャンニが他界した後、ドナテラの才能を不安視する声もあったが、最近は杞憂に過ぎなかったことが、彼女自身の活躍が証明している。出身地であるイタリアでは、ホテル経営も順調であり、デビューから30年経たずして、これだけ拡大したブランドも稀である。国内では三井物産、サンフレール系列のベルサーチ・ジャパンによって展開されている。
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