ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 138

☆ ダスラー兄弟☆

2007.02.20号  

 ドイツのニュールンベルグ近郊のヘルツォーゲンアラウッハで、靴工房をしていたクリストフ・ダスラーに二人の息子がいた。この地域では何処の家庭でも、子供の手に職をつけさせるのが慣例となっており、クリストフは息子であるアドルフとルドルフ兄弟に、靴職人になるようにと、靴工房での修行を勧めた。やがて、水車小屋からフェルト屑を分けて貰い、古いゴムチューブを使ってスリッパなどを造り、近郊で販売するようになった。1920年になって「ダスラー兄弟商会」を設立。兄のルドルフが販売を担当し、弟のアドルフが製造を担当した。24年頃には体育館でも使用できる、ゴム底を使用したシューズを開発した。翌年には地元の体育協会から一万足の注文を受けたことで、工場を増築するほどの利益をあげられるようになった。その後、アドルフは世界的なスポーツとして発展するサッカー用シューズの開発や、陸上競技のコーチであった知人の提案で、陸上競技用シューズの開発をおこなった。世界的な不況が続き恐慌前夜であったが、28年には8000足のシューズを売上げるようになった。オリンピックの三段跳びで織田幹男が、初めて日章旗を揚げたアムステルダム大会では、多くの競技参加者がダスラー兄弟商会のシューズを使用していた。

 33年頃から世界恐慌の余波を受けて、ダスラー兄弟商会も経営危機に陥った。しかし、36年のベルリンオリンピックが決定されるや、陸上競技界での知名度と、商品の高い品質が評価されたシューズは、爆発的な販売増となり原材料が不足するほどの繁忙となった。35年にはポスターによる宣伝広告も開始され、快進撃が続いていたが、第二次世界大戦の影響で生産も規制を受けるようになり、42年には兄ルドルフも兵役に徴集された。その後、第二次世界大戦が終わり世の中は平穏を取り戻したが、48年になって経営方針を巡って兄弟の意見が対立し、ダスラー兄弟商会を解消してしまった。兄弟はそれぞれ独立した会社を設立することになった。兄のルドルフはRUDE社を設立することになり、翌年には「PUMA」社と社名を変更した。このプーマというブランド名は、アメリカライオンのピューマから命名。プーマ社のブランドマークになっている。弟のアドルフは「アディダス」社を設立した。アディダスの由来は、アドルフのニックネーム「アディ」と姓の「ダスラー」をつなげて名付けられた。アディダスのブランドマークは二種類あり、楓の葉をあしらったロゴは主にファッションブランドに、三本線のロゴは主にスポーツブランドとして付され、下部に「adidas」と記されている。現在ではプーマ社とアディダス社は、ともにドイツが誇る世界的に有名なスポーツ用品・スポーツウェアーのメーカーに成長し、数々のチームやトップ・プレーヤー達に商品を提供する多国籍企業となっている。

 女子プロテニス界のスーパースター、マルチナ・ヒンギスもアディダスと契約しているプレーヤーである。4大大会などでは彼女がコートでプレーする姿を、各国の報道カメラが常に追いかけており、アングルに捕らえられたウェアー・ソックス・シューズなどに入っている三本線のロゴマークは世界中で放映される。ヒンギスは80年にチェコスロバキア(現スロバキア)に生まれた。当時のチェコスロバキアの代表選手だった母親メラニーが、同じチェコスロバキア出身だったマルチナ・ナブラチロワにあやかって、我が娘にマルチナと名付けた。この頃、24才だったナブラチロワは、78年と79年のウィンドブル選手権で、2連覇を達成するなど頂点を極めていた。母メラニーは同じチェコスロバキア人であった父と、ヒンギスが7才のときに離婚してしまい、8才の頃にはスイスに移住するようになった。ヒンギスは母親の影響で幼少の頃からテニスを習い、生まれ持った類い希な才能は次第に開花していった。94年10月、14才の誕生日の二週間後にプロデビューを果たした。95年には4大大会のひとつである全豪オープンに初出場して、女子テニス協会から最優秀新人賞を受ける。96年10月にドイツで開かれたWTAツアーで初優勝したあと、女子ツアーの最終戦であるチェイス選手権では初出場で準優勝を果たし、ランキング4位となってスーパースターへの階段を上り始めた。この大会の2回戦で対戦した伊達公子は、ヒンギスにストレートで敗れ、彼女の現役最後の試合となった。97年1月の全豪オープンでは、4大大会史上最年少の16才3ヶ月で、マリー・ピエルスを撃破して初優勝を飾る。3月には16才6ヶ月で史上最年少のランキング1位となった。4大会の中でも別格で、伝統と格式を誇り英国王室も観戦するウィンブルドン選手権では、ヤノ・ノボトナを退けて初優勝する。続いて全米オープンでもビーナス・ウィリアムズにストレートで勝利し、史上最年少の16才で4大大会の3冠を達成した。この年の全仏オープンは準優勝で、年間グランドスラムは達成出来なかったが、名実ともに世界のトップ・プレーヤーとなった。残念ながら全仏オープンは、2度の準優勝はあるが未勝利である。その後はスランプに陥るとともに、女子テニス界はダベンポート、ビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹などの、パワーテニスが全盛となった。年若く頂点を極めたことの疲労と、テニスへの情熱を失ってしまったヒンギスは、03年1月に引退を表明した。06年1月に現役復帰を果たし、全豪オープンにも参加。2月の東レ・パン・パシフィックで準優勝、5月のイタリア国際選手権で復活優勝を遂げた。ウィンブルドンでは3回戦で杉山愛に敗れたものの、この年はカナダ・マスターズ準優勝などで世界ランク7位に復帰。07年2月の東レ・パン・パシフィックで、大会最多5度目の優勝で完全復活を遂げた。これからもアディダスのコスチュームを身につけた、ヒンギスのエネルギッシュなプレーと、5月に開催される全仏オープンでの初制覇が期待されている。

 プーマのサッカーシューズは、サッカー選手達にとっては定番となっているブランドである。ペレやヨハン・クライフ、マラドーナ、ローター・マテウスなどの世界トップクラスの選手達が使用し、日本でも三浦和良など多くのプレーヤーが愛用している。毎年開催されている全国高校サッカー選手権は、ナイキが協賛スポンサーであったが、第84回大会からはプーマが協賛スポンサーとなっている。アディダスのサッカーシューズもジダンやベッカムなど、多くの選手が愛用しており、ドイツはもちろん、日本やフランス、アルゼンチン、スペインなどの代表チームが契約している。テニス用品ではヒンギスのほかにもペトロワや、男子のアガシが愛用。日本のプロ野球でも、今年古巣に復帰した小久保や今岡、松中、西岡などが契約選手となっている。スポーツ用品メーカーにとって契約するチームや選手の活躍が、販売競争やシェア獲得に直接影響するだけに、ナイキやミズノなどと熾烈な契約獲得競争を繰り広げている。ダスラー兄弟が起こした「PUMA」と「アディダス」は、世界のマーケットでも確固たる地位を築いており、ドイツ国民のプライドをも満足させる展開をしている。日本ではプーマジャパンとプーマアパレルジャパン、アディダスジャパンが、それぞれ販売を競い合っている。


<< echirashi.com トップページ     << ビジネスコラムバックナンバー