1980年6月、古くから「ご不浄」と云われ、不潔の代名詞のように呼ばれたトイレのイメージを「快適・清潔」な空間に変える革命的製品が発売された。東陶機器（ＴＯＴＯ）が発売する温水洗浄便座のウォシュレットである。発売25年後の05年6月には販売累計
2000万台を突破した。発売当初のメディアでは「おしり」「トイレ」の文字はタブー視され、宣伝広告もままならず営業マンは主婦達に「お化粧は紙で拭くだけで落ちますか？顔を洗うでしょう。お尻も同じです」と説いて、販売に全国を走り回った。現在では同業他社の同種製品も含めて、ウォシュレットが温水洗浄便座の代名詞ともなった。
ＴＯＴＯでは64年にアメリカのベンチャー企業、アメリカン・ビデ社が痔の患者用に開発した医療便座「ウォシュ・エア・シート」の輸入販売をする事になった。限られた用途の商品だったため、一般家庭に販売するには商品としての完成度を高める必要があった。
67年にアメリカン・ビデ社から特許を取得して、一般家庭でも使用できるように製品開発の見直しを行った。こうして、国産のウォシュ・エア・シートの生産販売を開始したが、発売当初は水の温度が熱すぎたり、冷たすぎたり、さらに温水が放射される方向が不安定でクレームが続出し、会社は返品の山が出来るほどの欠陥商品であった。
先立つ70年代の日本は高度成長の真っ直中で、空前の住宅建設ラッシュに沸いていた。
下水道のインフラ整備も進み、住宅建設で使用する水廻り製品のトップメーカーとして、水洗便器の売上も急上昇していた。しかし、その後の二度のオイルショックで、住宅着工戸数が激減。それによりトイレの設置戸数は勿論、水廻り製品の販売も激減してしまった｡会社は窮状を乗り越えるため、ウォシュ・エア・シートの開発を命じた。開発に着手して最初の難関は、温水を放射するお尻の位置、すなわち老若男女それぞれの体形によって肛門の位置が違い、放射するノズルの位置や角度が定まらなかった。
そんなデータは何処を探しても在るはずもなく、開発スタッフは社内に協力を求めるしかなかった。社員に針金を張った便座に座って貰い、肛門の位置に付箋を貼って貰うように依頼したが、社員は協力に尻込みし、とくに女性社員は恥ずかしさで逃げ回った。やむなく開発スタッフは家族をも巻き込み、ようやく男女300人以上のデータを集めた。
次なる難関は放射される水が、お尻にあたった時に気持ちよく感じる快適な温度の設定だった。寒冷地と温暖な地域、夏と冬の温度差などに関係なく、一定の温度を保つ必要があった。バイメタルのような温度係数の違う金属を、重ね合わせたようなセンサーでは適切な温度管理は不可能であった。ＩＣを使う提案もあったが、陶器屋であるＴＯＴＯでは、エレクトロニクスの技術を持ち合わせているはずもなかった。当時の家電メーカーでさえ漏電が心配で、直接水廻りに半導体を使う技術は持っていなかった。ある時、通勤途上で信号待ちをしていたスタッフが、風雨に直接さらされている信号機を見て閃いた。メーカーを訪ねて協力を依頼すると、ハイブリッドＩＣという技術の提供を快諾してくれた。スタッフがハイブリッドＩＣにプラスチック製の保護カバーを取付け、尿と同じ塩分を含んだ水を浴びせても問題は起きなかった。これで温度管理と漏電の問題は克服された。
モグラ叩きのような開発は、更なる難問に突き当たった。便器から出た湯を確実に肛門にあてる事ができるか。解決策が見つからずに思案を重ねていたスタッフが、偶然にも道端に止まっている車が、ラジオのアンテナを伸ばしているのを見た。これをヒントに便座から、一直線に伸びるノズルを設計することを思いついた。ノズルの先端に放射口をつけ、肛門に近づいてからお湯を出すことに成功した。次はお湯の量だ。見えないお尻をきれいに洗えたと、感じる感覚には個人差があり、一度に使うお湯の量までが研究対象となった｡
これらの試行錯誤を繰り返して､お湯の温度は38℃、便座の温度は36℃、乾燥用の温風は
50℃が最適であることが判った。ノズルの長さは6 �僂燃囘戮�43度とし、格納時や洗浄前にはノズルを洗浄できる衛生的な機能も付加された。そして、これらの試行錯誤のなかで行われた実験は、全てスタッフを始めとする人体実験であった。ウォシュレットの商品名で､全国で販売が始まって3ヶ月後､温度制御システムが故障し、温水が突然冷たい水になってしまうクレームが続出した。不具合の原因がなかなか掴めなくて、工場では至るところに返品の山が築かれた。年の瀬が迫るなかで不良品の修理に、開発メンバーや営業マン達が総出で全国を駆け回り、罵声を浴びて帰ってきた。
原因を究明した結果、38℃の湯温を維持するのにハイブリッドＩＣから、ヒーターに一日
1500回ものＯＮ-ＯＦＦ信号が繰り返されていた。その都度、ヒーターが熱収縮を繰り返えすため、金属疲労をおこして断線していた。開発スタッフは新型ヒーターの開発に打ち込み、アルミ製ヒーターをステンレス製に変え、さらに断線を防ぐために太くすることで､連続3000時間に渡ってお湯を出し続けることに成功した。
不浄と云われる場所で使うだけに、抗菌・防汚の対策も要求され、お湯を放出するノズル部分に、肛門から跳ね返ってきた温水が周囲に掛からないような角度も要求された。
快適なお尻の洗浄感を知った女性客からは、ビデとして使用する要望も出てきた。開発スタッフは、お湯を放出させる位置やノズルの角度など、お尻を洗浄するときと同じ試行錯誤を、実験で繰り返さなければならなかった。
こうしてウォシュレットは、消費者の声も積極的に製品開発に取り入れた。改善・改良が進められたことで、ウォシュレットは次第に完成度の高い商品となっていった。ウォシュレットは商品としての完成度が高まるとともに、拡販のために宣伝することが課題となった。過去には雑誌社から「便器は汚いお尻をイメージさせる。雑誌の品位が墜ちる」と云われ、新聞社には「トイレはご不浄」と公告掲載を拒否された経緯があった。
開発スタッフは81年の暮れも押し迫った頃、ウイスキーやウォークマンなどの商品コピーで、天才と云われたコピーライターに、ウォシュレットの商品コピーを依頼した。
ライターは「商品価値が理解できない」と渋ると、スタッフは傍らにあった絵の具を手のひらに塗り「この絵の具を紙で拭いてみてください」と言った。ライターが紙を使って拭いたが汚れは落ちなかった。そこで、スタッフは「お尻だって同じです。水で洗えば綺麗になります。これは常識との戦いなんです」。かつて工業高校で技術者を夢見たこともあったライターは、スタッフの熱意に「地に足がついた技術で造られた商品ですね。ぜひ担当させて下さい」と答えた。
82年当時､話題のタレント・戸川純を起用したＣＭ第一弾「おしりだって洗ってほしいの」のキャッチコピーが反響を呼び、第二弾の「なにをかくそう、おしりもキレイ」で、ウォシュレットの存在を一気に広めることになった。
以後は順調な販売増を続け、同業他社も温水洗浄便座市場に参入してきたが、ウォシュレットは絶対的優位に立っている。トイレの多機能化は日本独特の文化であり、05年に来日した歌手のマドンナは「日本の暖かい便座が懐かしかった」とコメントしている。海外での普及はあまり進んでおらず、ＴＯＴＯでは中国などのアジア諸国・中東諸国・アメリカ・カナダなどに拠点を設け販売に取り組んでいる。
05年10月には音楽のＭＰ３再生機能がついた、ウォシュレットが発売されるなど多機能化がさらに進んでいる。このＭＰ３再生機能を使用している消費者から、感謝の手紙がＴＯＴＯに届いた。手紙には「トイレを嫌がっていた子供が､アニメのテーマ曲を聞かせると、喜んでトイレに行くようになりました」と書かれていた。
不浄と云われたトイレを、快適・清潔空間に変え、今度は「楽しさ」まで追求したウォシュレットは、国内市場だけでなく海外にまで日本的文化を普及させる革命的トイレである｡
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