白磁の歴史は古く、中国では6世紀、朝鮮半島では14世紀に始まったと云われる。
日本では16世紀末頃の文禄・慶長の役で、戦況の苦戦と1598年8月18日に秀吉が死亡したことで朝鮮から撤兵することになった。そのときに肥前国・鍋島藩の藩主が連れ帰った陶工たちの頭と思われる李三平が、有田の泉山で磁石鉱を発見し、明の官窯景徳鎮を参考にして、藩窯である天狗窯を開いた。日本で初の白磁を焼いたとされる李三平は、日本名を三兵衛と名乗り有田焼の祖と呼ばれた。これを機に有田は磁器の町となったが、さらに発展するには、日本や世界の国々の情勢が、17世紀初頭に大きく揺れ動いたことが幸運をもたらした。
スペインの無敵艦隊がイギリス艦隊に敗れ、東洋貿易の覇権はポルトガルやスペインから、イギリスやオランダの新興勢力に代わっていった。日本では1600年に関ヶ原の戦いが起こり、オランダ船が大分海岸に漂着した。1602年にはオランダ東インド会社が設立され、翌年には徳川家康が征夷大将軍に就き江戸幕府を開いた。
中国では1644年に明が滅び、清の時代となった。明の遺臣達は中国の東部海岸や、台湾で 40年近くも抵抗を続けた。中国最大の磁器輸出を誇った景徳鎮も、不穏な状勢となり生産が大幅に減少した。これにより景徳鎮磁器を買い付けていたオランダ東インド会社は、代わりの買い付け先を探すことになった。これに応えたのが有田の磁器であった。
磁器産業が後退した景徳鎮では、技術者も流失させることになった。初代の柿右衛門が中国から色絵の技法を習得したように、中国から多くの磁器技術が日本へ伝わった。やがて、乳白色の白磁に朱色や青、淡緑色の鮮やかな色彩が塗られた柿右衛門様式が完成し、さらに金彩を塗った豪華絢爛の磁器が生まれた。伊万里港から積み出された磁器は、長崎のオランダ商館を通じて、大量に出荷されていった。新しい技術とオランダ東インド会社による輸出は、有田を始めとする肥前の磁器産業に活況をもたらすことになった。この頃はヨーロッパでは、磁器を造ることができなかった。東洋の磁器、とくに白磁は「白い黄金」とも呼ばれ、王侯貴族達は中国や日本の陶磁器を金銀と同じくらい珍重した。
貴族達は東洋の磁器を買い集め、飾り立てることで、富と栄華を誇示して権勢を競った。
長崎で船積みされた有田の磁器は、「海のシルクロード」(台湾〜ベトナム〜マラッカ海峡〜スリランカ〜アフリカ大陸〜スペイン)を経て、オランダのアムステルダムやロッテルダムに運ばれた。早くても1年、長ければ3年もかかる大航海であったが、東洋の白磁はヨーロッパに着くと高値で取引され、オランダ商人の懐をも潤すこととなった。
1694年にドイツのザクセン王となり、後にポーランド王ともなったオーガスタ一世は、古伊万里(古い有田焼は伊万里港から船積みされていたので、このように呼ばれた)に心酔し、熱狂的なコレクターとなっていた。オランダ商人にとっては、オーガスタ一世は最も気前の良い顧客であった。即位後の一年間で、現在の貨幣価値に換算すると10億円以上も磁器購入に費やしたと云われる。即位前には見聞を広めるために、イタリアやフランスを歴訪し、とくにルイ14世のベルサイユ宮殿の壮麗さに感銘を受けて帰国した。即位後は北方戦争やイスパニア継承戦争で、財政は火の車であったにも拘わらず、豪奢を演じることが君主の努めであるかのように振る舞ったという。そして、ドレスデンをヨーロッパ随一の学問と芸術の都にするべく、ドレスデンの町を大改造することに着手した。その頃は錬金術が信じられていた時代で、隣国のプロイセンで黄金を造ることに成功した錬金術師がいるとの噂が流れた。プロセイン王のフリードリッヒ一世は、錬金術師のベトガーを捕らえるよう命じた。ベトガーはザクセンに逃亡するが、今度はオーガスタ一世に捕らえられてしまった。19歳のベトガーはドレスデンへ護送され、その後13年間も虜囚の身となってしまった。オーガスタ一世はベトガーに黄金造りを命じるが、できるはずもないベトガーは厳重に監視され、外部とは遮断された状況の中で、実験を強要された。
ベトガーは何度も逃亡を試みるが、そのたびに捕縛されることの繰り返しであった。
そんな折りにオーガスタ一世の顧問に、チルンハウスという科学者がいた。チルンハウスはザクセンの財政を立て直すため、ガラスや陶器の生産工場建設を考えていた。種々の研究や実験を重ねながら、高温を得るための装置などを考案していた。
オーガスタ一世はチルンハウスとベトガー、それにザクセンの鉱山技術者達に、東洋の「白い黄金」造りの命を下した。そして実験が開始されることになった。当時のヨーロッパでは、磁器の製法に関する情報は何もなく、何らの成果を上げることもなく数年の月日が流れた。やっとできたのが赤褐色の焼き物だった。これは磁器ではなく、当時はヨーロッパに大量に輸出されていた中国・宜興窯産の、急須と同じような焼き物だった。オランダのデルフトなどでも模倣されていたが、ヨーロッパの人たちには磁器と思われていた。
やがて1708年にドレスデン・ユングフェルン稜にあったベトガーの実験室で、白磁の欠片ができあがった。有田焼の誕生から遅れること、およそ100年の歳月を要して、ヨーロッパで初めての白磁が焼き上がった。だが、この年にチルンハウスは57歳で他界してしまった。残されたベトガーは白磁に改良に改良を重ね、翌年にはオーガスタ一世に書簡をしたためた。それには「中国のものに勝とも、劣らぬ白磁を量産できる」と書かれていた。
(当時のヨーロッパでは、中国と日本の区別が、ついていなかったと云われている)これを受けてオーガスタ一世は、1710年1月に王立磁器製作所の設立を布告した。磁器製法の機密保持の理由から、磁器製作所の設置場所はドレスデン郊外で、エルベ川に面したマイセンにある孤城・アルブレヒッツブルグ城と決定された。
こうしてマイセン白磁が誕生することになった。しかし、1719年にベトガーはマイセン白磁の量産を見届けた後、享年37歳の若さで世を去った。
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