ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 147

☆ 牡蠣エキスのキャラメル☆

2007.04.24号  


江崎利一は、1882年に現在の佐賀市・蓮池町に生を受けた。父・清七は薬種業を営んでいたが商運に恵まれず、六人兄弟の長男であった利一は、幼い頃から貧しい生活を送った。
15歳で高等小学校を四年で卒業し、家業を手伝いながら、塩の販売などもするようになったが、一家の生活は容易ではなかった。19歳の時に父・清七が他界し、一家の柱として家業を継ぐことになった。しかし、同時に多額の借金も継ぐことになってしまった。
22歳の時には日露戦争に応召、32歳の時にも日独戦の青島作戦に従軍した。この間に大阪へ視察に出て、薬の安価な仕入れ先を開拓したり、コレラ患者看護に奉仕したりして佐賀県から感謝状を受けたりしたが、なかなか生活は楽にならなかった。
この頃の利一は独学で広告や販売のことを勉強していた。1915年に空き瓶の再利用をヒントに、葡萄酒業を始めるようになった。二年後には葡萄酒販売が九州でトップクラスになり、江崎商会の大阪出張所を開設した。商都・大阪に本格的進出を果たすには、さらに大きな商いを目指す必要に迫られていた。

利一は19年の3月、有明海の漁師達が牡蠣の加工をしている光景を目にした。大鍋から牡蠣の煮汁が溢れているのを見て、以前に読んだ薬事新聞の記事を思い出した。
内務省栄養研究所長・佐伯矩博士の発表記事に「エネルギー代謝に必要なグリコーゲンは、日本の貝類、とくに牡蠣に多く含まれている・・・」とあった。利一は牡蠣の煮汁を買い受けて九州大学に分析を依頼した。その結果、牡蠣の煮汁には40%以上のグリコーゲンが含まれており、カルシウムや鉄分が含まれていることも判った。
利一はグリコーゲンを活用して、いかに商売に結びつけるか、日夜考えを巡らせていた。
ちょうどそんな頃、長男・誠一がチフスに罹ってしまった。症状はまもなく治まったが、誠一の衰弱は激しく、医者も難儀する状態であった。誠一の体力を心配した利一は、グリコーゲンのエキスを誠一に与えてみた。すると誠一の容体は驚くほど回復し、食欲も旺盛になり、日増しに体力が甦ってきた。
利一は製薬事業を検討したが、九州大学の教授から「治療よりも病気にならない体をつくる、予防が大切だ」との助言を受ける。それならばと、グリコーゲンを一番必要としているのは、育ち盛りの子供である。子供達が喜んで食べるキャラメルに入れることにした。
名称はグリコーゲンに因み「グリコ」とし、栄養菓子グリコのスタートとなった。
次に商標をどうするか悩んでいたときに、神社の境内でかけっこをしている子供達が、ゴールインするときに両手を挙げていたのを見た。ゴールインする子供は元気が良く、スポーツに通じる遊びは、健康への近道でもある。商標は「ゴールインマーク」と決まった。利一は小学生にゴールインマークを見せ、子供達に人気があることを確かめていた。これは現在で云う、マーケットリサーチをしていたことになる。若いときに生活に追われながらも、勉強していた成果が顕れたのである。
今度は販売するにあたり、広告の謳い文句にも凝った。グリコの栄養価をカロリー計算して300メートルとはじき出した。これが「一粒 三百米突」のキャッチフレーズとなった。
さらに、形も「ハート形のキャラメル」とし、包装は品のある「赤色の紙箱」とした。
そして、外箱には「文化的滋養菓子」と書き加えた。

213月に利一の一家は大阪に移住し、合名会社・江崎商店を設立した。葡萄酒業が成功したとはいえ、第一次世界大戦後の恐慌時期である。新事業を拡大するのに、周囲は大反対であった。しかし、利一は子供達の健康増進のために、苦難を承知で乗り出したのである。ましてや、50社余りのキャラメル業者が10社あまりに激減し、大手の先行二社が快進撃を続けていた時期である。
グリコの販売促進を図るためには、製品の威信を高める必要があった。利一は最も信用のあるデパートと見極めた大阪・北浜の「三越」へ猛烈な売り込みを図った。断られても断られても通い続け、根負けした売り場主任に「試しに置いてみよう」と言わせた。利一を始め従業員共々、天にも昇るような喜びに沸き返った。22210日、三越でリンゴ箱2杯分の栄養菓子グリコが販売された。利一はこの日を江崎グリコの創立記念日とした。
あまりにも知名度が低かったグリコだが「あの三越が承知したなら」と、ほかの百貨店や菓子店が販売してくれるようになり、知名度も徐々に脹らんでいった。

何時も順風満帆とばかりに行かないのが世の常である。商品確保を急いた問屋からは、余剰の返品を山と積まれ、さすがの利一も人知れず男泣きしたこともあったと云う。
27年の金融恐慌では唯一の取引銀行であった近江銀行が休業した。その2年後には、近代日本が経験した最大の経済危機であった世界恐慌にも遭遇することになった。
しかし、利一は北浜の第一銀行へ乗り込み、己の信条を切々と訴えた。支店長は利一の熱意にうたれ、口座開設と手形の割引を引き受けてくれた。また「果物キャラメル」を発売して、単一商品から脱皮し、経営の安定化を図った。金融恐慌が荒れ狂うなかでは、オモチャの小箱をつけて不況の嵐を吹き飛ばした。
利一は「子供達にとって、食べることと、遊ぶことが天職」との考えから、グリコの箱に豆玩具を入れて、心と体の健康を提供しようとした。よって利一は「おまけ」という言葉を嫌ったという。菓子の添え物ではなく、子供にとっては菓子と同じくらい大切な存在と考えていた。今でも江崎グリコの社員は「おまけ」ではなく「オモチャ」と呼んでいる。
34年には子供達に対する思いから、私財を投じて「財団法人 母子健康協会」を設立した。
創意工夫と揺るぎない起業家精神、そして己の信条を貫き通した希代の商人は、80年に満年齢97歳で、金言を残して天寿を全うした。「面倒なことをやらねば、商売は成功せんよ」




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