ヴィヴィアン・ウェストウッドは、ファッション・デザイナーであり、名前がファッション・ブラントともなっている。反逆性とエレガンスを兼ね備えたアバンギャルドなデザインで知られている。SMの要素を取り入れた前衛的な、パンク・ファッションを流行させたことで「パンクの女王」と呼ばれることになる。
ヴィヴィアン・イザベル・スウェアは、1941年4月8日にイングランド中部ダービーシャーで生まれ、17歳の時に、家族と一緒にロンドンへ移住した。62年にデレク・ウェストウッドと最初の結婚をしたが、3年後には破局を迎えてしまう。若い頃は教職の道を志したこともあったが、知性探求の中で、マルコム・マクラーレンと出会うことになる。
マルコムは無政府主義団体に属し、資本主義社会の矛盾に抗議して、新しい都市創造を目指す活動をしており、ヴィヴィアンと意気投合することになった。
ロンドンがカルチャー・トレンドの最前線にあった71年に、ヴィヴィアンとパートナーのマルコムは、共にデザインを始めるようになり、12月にはロンドンのキングスロード430番地に実験ショップをオープンした。ショップには彼女らのアイデアと、デザインが詰まったショーケースが並び、「Let It Rock」という名で知られるようになった。
当時のファション・トレンドはヒッピーであり、イギリスのラジオではロックンロール・ミュージックなどは、耳にすることが無い時代となっていたが、レット・イット・ロックでは50年代のロックンロールのレコードと洋服を扱うショップだった。ヴィヴィアンは新しいコンセプトのデザインを発表するたびに、店の名前から装飾までも変えていった。72年になって、そのショップは「Too Fast To Live Too Young To Die」(生きるには早すぎ、死ぬには若すぎる)と名前を変えた。そこではジップやチェーンが施された洋服に、Tシャツにはスローガンを、それにZoot suits(裾で括ったダブダブのズボンに長い上着)を扱っていた。74年には店名を「SEX」に変え、オフィス用のラバーウェアー、レザーボンテージ、Tシャツはジップ付き、穴あきでシュチエーショニスト達のスローガン、そしてポルノグラフィック的なイメージのようなモノを扱っていた。
75年になるとマルコムと共に、パンク・ロックバンド「セックス・ピストルズ」をプロデュースする。バンドのメンバーはSEXの従業員や常連客であった。その後、マルコムはセックス・ピストルズのマネージャーとなっている。
76年になるとパンクの時代が到来し、「セディショナリーズ」に店名を変更。79年には「ワールズ・エンド」に変更した。この店名は現在に至るまで、キングスロードにある店のショップ名としている。この頃にはヴィヴィアンは、イギリスのアバンギャルドの象徴となっていた。81年A/Wコレクションでは初のキャットウォーク・コレクションを発表し、そこでは「海賊ファッション」や「魔女ファッション」を提唱した。
翌年の10月にはマリークァント以来となる、二人目のイギリス人デザイナーとして、コレクション発表の場をパリへと移した。それと同時に二番目のショップ「ノスタルジア オブ マッド」をオープンした。その後の84年後半に、このショップの閉店と時を同じくしてパートナーであったマルコムと離れ、独立していくことになる。84年秋にヴィヴィアン・ウェストウッドは、東京で開催された「The Best Of Five」にジャンフランコ・フェレ、カルバン・クライン、クロード・モンタナ、森 英恵らと共に選らばれて来日し、コレクションを発表した。この年はヴィヴィアンがファッションに対する方向性を、変えた重要な年でもあった。ストリート・スタイルや若者のカルチャーが、ヴィヴィアンのスタイルを模倣しなくなった時期でもあった。これを契機に17世紀のイギリスの生地織物、18世紀のアートインスピレーションを広げたヴィヴィアン・ウェストウッドの世界観を展開していくようになる。そして「伝統をもって、未来を創る」という、彼女のクリエイティビテイを象徴するORBロゴが初めて使われるようになった。
89年ヴィヴィアンはフェアチャイルド・パブリケーションズの社長であり、ファッション・バイブルのウーマンズ・ウェアー・デイリーの編集長でもあったジョン・フェアチャイルドが主催する雑誌「Chic Sabages」において、世界の優れた6人のデザイナーの一人に選ばれた。ヴィヴィアンの高度な服造りのテクニックは高い評価を得ており、この年からウィーン芸術アカデミーの教授として教壇に立ち、92年には王立芸術大学の名誉奨学研究員に選出されている。彼女はレディスコレクションのたびに、メンズ・ウェアーを発表していたが、90年には初めてメンズ・コレクションとして発表した。そしてこの年ブリティシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。翌年にはクリスチャン・ラクロア、アイザック・ミザリ、フランシスコ・モスキーノらと共に、ファッション・サミットに出席するため、再び東京でコレクションを発表することになった。
92年には再びブリティシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、12月にはエリザベス二世より、大英帝国勲章を授与される。96年にもヴィヴゥアン・ウェストウッド社は輸出部門成長企業として、女王陛下より表彰される。そして06年1月にはNew Year Honour DAMEの栄誉ある称号を女王陛下より与えられた。
日本における展開は、96年9月にヴィヴィアン・ウェストウッド東京を日比谷にオープンした。日本初の旗艦店オープンに来日して、フロアショーとトークショーを開催した。 03年の12月には全てのラインを、集結させた旗艦店を青山にオープン。翌年11月にもレッドレーベル初の路面店を代官山にオープンさせた。04年3月ロンドン、10月オーストラリア・キャンベラに続き、05年11月にはヴィヴィアン自身の34年間の回顧展を東京で開催した。全国主要都市の有名百貨店にもインショップを展開している。
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