車好きの人は、誰しも憧れたことのあるドイツ自動車メーカーのポルシェ。同じくドイツの自動車メーカーであるフォルクスワーゲン(VW)の、ベストセラーとなったビートルを、最初に作り上げた技術者フェルディナント・ポルシェの、息子であるフェリー・ポルシェが1947年に設立した。 71年にポルシェ一族は経営から退き、同族経営からは脱却
しているが、依然として大株主としての立場は堅持している。ポルシェの技術者だったポルシェ博士の孫で、後にVW・アウディ・グループ会長となったフェルディナンド・ピエヒと、同じく孫で後にポルシェ・デザイン社長となったブッツィ・ポルシェも、このときに会社を去っている。
ポルシェでは48年にアルミボディの、プロトタイプの「ポルシェ356」を完成させた。
ポルシェの名前を初めて冠した車であることから、「ポルシェNO.1」と呼ばれた。その後は順調に業容を拡大し、ポルシェ・ブランドも浸透していった。1963年に発売されたスポーツカー「ポルシェ911」は、改良を重ねながら製造販売され、現在でも高い人気を誇っている。水冷エンジンとなった新世代のポルシェにおいても、リヤエンジンと「911」の名称は記号として残されている。ほとんどの車種に共通している「カエル顔」の特徴あるデザインも継承されている。
現在の主力は高級スポーツカーとレーシングカーの開発製造で、モータースポーツ分野では、圧倒的な実績を残している。生産台数は10万台にも満たない規模ではあるため、ロードカーの生産増を、世界中にいる多くのファンが、待ち望んでいる状態である。ポルシェはモータースポーツ分野での貢献は群を抜いており、各種ロードレースや、ル・マンなどの耐久レース、ラリーでもモンテカルロやサファリ、パリ・ダカールなどでも数々の戦果を収めている。また、F1にもチームとして参加した実績もあり、エンジン・サプライヤーとしての実績も多数残している。
64年に販売された「ポルシェ904」では、競技専用車ではないため、かなりの台数がロードカーとして登録された。日本では日本グランプリで、プリンス・スカイライン(プリンス自動車は、その後日産自動車と合併)と壮絶なバトルを繰り広げた車として知られる。
このようなブランド戦略と高付加価値化が功を奏したポルシェは、事業を順調に拡大していったが、90年代前半に最大のマーケットである、アメリカでの販売不振により、赤字が拡大して経営難を囁かれた時期があった。
現在の経営最高責任者のブェンデリン・ヴィーデキングが 93年に復帰した。ポルシェの
本社はシュワーベン地方南部のシュツットガルトにあるが、ヴィーデキングはシュワーベン人ではなく、ドイツ北西部の出身である。彼はエンジニアとしての教育を受けた後、ポルシェに入社したが、経営の勉強を積むため一度会社を離れていた。
ポルシェは96年に低価格のオープンカー「ポルシェ・ボクスター」を投入。翌年にはデザインと設計を全面的に一新した996型「ポルシェ911」を投入した。03年にはポルシェが初めて投入した4ドア車「ポルシェ・カイエン」が絶大な人気を得た事もあり、生産台数は
99年から00年度の約4万5千台に対し、03年から04年度は約8万台と急激な伸びを示した。ポルシェは彼の経営手腕により販売が好転、経営にも安定を取り戻して、高収益の企業体質を構築するようになった。55年に旧約聖書から題材を得た、ジョン・スタインベックの長編小説が映画化された。
第一次世界大戦参戦前後、米カリフォルニア州の農村を舞台に展開される映画「エデンの東」である。主演には監督のエリア・カザンが発掘した、無名の新人俳優ジェームス・ディーンが抜擢された。父親役にレイモンド・マッシー、恋人役の舞台俳優ジュリー・ハリス、双子の兄役をリチャード・ダヴァロスで脇を固めた。原作では農場を経営するアダム・トラスクの生涯を描いていたが、脚本のポール・オズボーンは、父に愛されたいと願う頑なな青年を、主人公とした青春映画に仕上げた。レナード・ローゼンマン担当のテーマ音楽は、今ではスタンダード・ナンバーとして、多くの人に愛されている名曲である。
ジェームズ・バイロン・ディーン(愛称としてジミー・ディーンとも呼ばれていた)は31
年2月8日、インディアナ州マリオンで生まれた。その後フェアマウントで育ったが、9歳の時に母親を亡くし、父親の姉夫婦に育てられた。高校時代から演劇に興味を持ち、カリフォルニア州立大学の演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどには出ていたが、俳優としてのキャリアを追い求めて中退。その後ニューヨークに移って、何編かのテレビ番組に出演した経歴がある。そして、アンドレ・ジィドの「背徳者」に心酔し、ハリウッドへ行き映画スターを夢見る事になる。
「Sailor Beware」のような三流映画の端役を何本か演じた後、エリア・カザンに見いだされた。「エデンの東」のキャル・トラスク役で、初の主役を演じて大ブレイクすることになる。この役でアカデミー賞の最優秀主演男優賞にノミネートされた。その年の「理由なき反抗」でも主役を射止め、この映画では50年代の、若者の反抗心を端的に表現した演技で、映画関係者からも高い評価を得た。続けてジミーは、あまり乗り気でなかったと云われる「ジャイアンツ」に出演し、この作品でもアカデミー賞にノミネートされた。
スピード狂で知られていたジミーは、ポルシェが大のお気に入りだった。「ジャイアンツ」の撮影が終わり、映画が公開される前の開放感に浸っていた。55年9月30日、いつものように愛車のポルシェ550スパイダーを駆って、ロスアンゼルスの110フリーウェイを走っていた。しかし、いつもと違ったのは、不注意で事故を起こしてしまった事だった。
ジミーの死は多くの同世代の若者に陰を落とした。衝撃的な死と、やっと華が咲いた短すぎるキャリア、ジミーの魅力と将来の可能性が、ジミーを崇拝の対象とした。そして公開葬儀が世代と国境を超えて、ファンを悲しませた。後年、ジミーを偲ぶファンの要請で、事故車であるポルシェ550スパイダーのミニカーが販売されたことがあるという。ヴィーデキングの手腕により、業績を回復させたポルシェは、05年に歴史的に縁の深いVWの、株式 20%を取得して筆頭株主となった。そして今春、VWの持株比率は 30%となり、自社よりも遙かに大きいVWを傘下におくことになった。トップに就いた14年前と比較して、ポルシェの株価は65倍にもなったし、VWの株価も大幅に上昇した。
彼は「我々のビジネスモデルを、経済的に支えるのは顧客だけだ。我々は顧客を重視しなければならない。顧客が満足しているとき、従業員、そしてサプライヤーも満足している。
その時には株主にも充分なカネが残るはずだ。ただ重要性の順番は、今話した通りだ」と経営哲学を語っている。さらに「資本がすべてのルールを決めるのを、社会が認めるはずがない。株主がカネを出すのは一度だけだが、従業員は毎日働いている」と語り、「自分は資本主義市場の奴隷ではない」と主張している。
彼はポルシェ復帰後、会社幹部を日本に送り込み、トヨタの生産方式を学ばせた。24人いた販売とマーケティングの幹部のうち19人を解雇し、BMWからチームを招聘した。その後に「ボクスター」「カイエン」を成功裏に投入してポルシェを再建。こうした自信が「世界でトヨタと戦える自動車メーカーは、ポルシェが支えるVWだけだ」と豪語させている。
今年はトヨタが販売台数でGMを逆転して、世界トップになると予想されている。その中でポルシェは生産方式だけでなく、日本人的発想をもトヨタから導入しようとしている。
ヴィーデキングは「信頼がキーワードだ。我々は顧客、従業員、同僚に対して、短期的な目標や流行だからという理由で何かをすることはない。重要だからやるという姿勢を見せる必要がある。今までやってきたことだし、これからもそうだ」と語る。
ポルシェに日本流経営を持ち込んで、経営破綻の危機から救い、世界一利益率の高い自動車会社に再生した。この実績を年間600万台近く生産するVWに注入できたとき、米国車メーカーに元気がない昨今、ポルシェ・VW連合のトヨタ追撃態勢が整う。
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