ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 169

☆ 近江国の行商人☆

2007.09.25号  


商売をすることを「商い」とか「商う」などと言う。この言葉の語源は“秋なすもの”、
つまり、秋に収穫される穀物や反物を、売り歩く事に由来するという説がある。
室町時代後期の近江商人は“持ち下り(くだり)品”といって、近江近郊で採れた商品を各地へ運んで売り歩いた。売りさばいて得たお金で、帰り道に生糸・紅花・塩干物・乾物などを仕入れ、“持ち上り(のぼり)品”として近江まで売りながら戻る。つまり往復で取引をして儲けていたと言われる。しかし、地縁や血縁もないところに得意先を開拓し、地盤を広げていかなければならなかった。そのためには、当事者である売り手と買い手だけでなく、その取引が社会全体を、良くするものでなければならなかった。このような意味で「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」という考えは、近江商人の経営理念に由来している。江戸時代以降には近江商人と言われる、多くの商人が世に出た。昭和の時代になってからも、ワコール(既号133.ハッピーダイヤモンド)を始めとする、近江商人の経営理念を、受け継いだ多くの経営者が成功を収めている。
その当時から現代に至るまで、行商を商う人達は自分の店を持つことに夢を描いていた。西川産業は1566年に初代西川仁右衛門が、19歳で近江国の蒲生郡南津田村(現在の滋賀
県)で商いを始めた。西川産業はこの年をもって創業の年と定めている。初代仁右衛門は近江商人らしく、4人の息子を連れて生活必需品を売り歩いていた。いわゆる行商である。
1587年、初代仁右衛門は創業20年を経て、近江八幡町に念願の店を構えることができた。
店の名前を「山形屋」として、ますます販路を拡張していったという。開店の前年には近江八幡城を築城した豊臣秀次によって「楽市楽座」の制度が公布された。制約の多い武家社会において、営業の自由を保障した制度は、商人にとっては大変重要なことであった。西川産業がこの地に店を構えた事が、その後の発展の礎となった。

情報が殆ど無いに等しい時代に、楽市楽座の制度が出来るやいなや、時期を逃さず移住し、新規開店に着手した初代仁右衛門の先見性は驚くばかりである。その後も畳表を販売商品に加え、美濃・尾張・遠江などまで販路を伸ばしていった。
1603年、徳川家康が江戸幕府を開き、江戸には人々が次々と集まりだし、消費の中心地になりつつあった。初代仁右衛門は近江国から近い大阪ではなく、江戸の中心地である日本橋に、蚊帳と畳表を専門に扱う支店を出した。1615年の大阪夏の陣で豊臣家が滅び、名実共に徳川の世になった頃である。
西川家二代目は四男である甚五郎が相続した。甚五郎は大変なアイデアマンで、それまで麻生地のままで織られていた蚊帳を改良し、萌葱色に紅布の縁がついた「近江蚊帳」を考案した。このデザインが評判となり、近江蚊帳の代名詞とまでなり定着していった。
家業は順調に推移し四代目利助の代には、現在の千葉県・佐原や江戸・日本橋通り一丁目に支店を出した。
五代目利助は 1737年に、江戸・京橋の弓問屋・木屋久右衛門の店を買い取り、この店の
在庫品を元に、弓の販売を手がけるようになった。その後京都の生産者らと一手仕入の契約を結び、京都で生産される弓の、江戸における独占販売に成功する。弓という武士だけが所持を許される特権的な商品を、扱うことは大変なリスクでもあった。初代仁右衛門の精神を受け継いでいる五代目は、あえて挑戦したのである。
六代目利助の時代には、京都の弓問屋を買収し、西川家の弓師掌握が進んでいった。1833
年の九代目甚五郎の時に、「幕府御用弓師」に指定され帯刀を許された。商人にとっては武家社会のなかにおいて、大変な名誉を得たことになる。さらに、1841年には打立弓師仲間が問屋を西川家一軒に定め、江戸や関東一円への直販は、すべて西川家を通すという契約を結び、幕府からの承認も得た。関東一円における弓の独占販売権を得たのでる。

西川家「中興の祖」と呼ぶに相応しい業績を残したのが、七代目利助である。1786年に徳川家斉が11代将軍に就き、翌年には松平定信が筆頭老中となり、倹約令を発して緊縮財政を執った(寛政の改革)。西川家にとつても経営基盤の安定を図ることが、七代目利助の大きな課題となっていた。
江戸では「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるくらい火事の発生が多く、七代目利助が家督を相続して早々に2店舗が類焼してしまった。この経験から「不慮の事故・災害などの復旧費用を積み立てておく」必要性を痛感。純益のなかから「普請金(再建費用)」「仏事金」「用意金」と3名目の積み立てを行った。この積立金を貸付資金として、確実な担保を取って貸金業も始めた。さらに、貸付金の利潤で土地・建物を購入し、賃貸するようになった。1799年には積み立ての目的、資金の用途や運用方法を「定法書」として明文化し、代々の西川家当主に受け継がれるようになった。
西川家の危機管理については、三代目利助の頃から実施していた。これを七代目利助が従業員に分家資格を与える別家制度を「法定目録」として明文化した。これによると、本家・親戚・別家の3者共同責任による相互チェックで運営し、グループの存続と体質強化を図っていた。
現在の賞与にあたる「三ツ割銀制度」と言われるものも制定した。年二回行われる決算を終えると、純益の三分の一を従業員に分配した。この制度は従業員に忠誠心を持たせるとともに、仕事に励むよう仕向け、売上向上に結びつけた。
七代目利助が行った改革の元になっていたのが、創業以来の古い資料であったが、現存する「最古の勘定帳」とされるものは、七代目が整備し総目録を作成した成果である。
西川家は江戸時代初期から計数管理による経営を行い、在庫管理や利益管理の概念をもとに経営されていたことになる。

明治時代になると商品流通が変化し、価格競争になる恐れがでてきた。本家による一括仕入を改め、支店による一部商品の「現地仕入」によるコスト削減を図った。創業以来、時代の変化に対応する企業姿勢は伝統的なものがあった。
現在の主力製品である寝具類、「ふとん」を扱いだしたのが、1887年頃であった。それまで自家で作るものであったふとんを、商品化した画期的なことであった。蚊帳は季節商品だが、ふとんはオールシーズンである。これにより経営の安定を図れる商品として成長していった。1912年にはモスリンの小売りを始めるなど、経営拡大を図っていく。
1923年の関東大震災によって受けた被害も甚大であったが、十二代目甚五郎は「これは天災である。一日も早く開店し、顧客の便宜を図ろう」と、直ちに再建に取りかかった。
近江の本店から商品を送り、不眠不休で販売したという。長年に亘って培われた本家と支店が結束、クループの力を結集して震災の被害を最小限に止めたのである。これも出店間の情報ネットワークを駆使して、商品を融通しあう「産地廻し」という、古くから近江商人に伝わる伝統的商法である。
時代は大きく下がって戦後になると、合成繊維が普及し始め、寝具のビジネスにも大きな変化が生まれた。「寝具革命」と呼ばれた合繊綿の誕生である。「合成安眠デラックスわた」として、発売と同時に爆発的に売れた。真綿に似た柔らかな感触と、うち直しを必要としない手軽さなど、数々の魅力を備えた商品であった。
1984年には「日本睡眠科学研究所」を設立。睡眠を科学することで、新たな商品化の道を探ると共に、寝具の製造販売から、総合的な「健康産業」への脱皮が始まっている。
現在、十四代目西川甚五郎会長率いる西川産業は、昨年創業440年を迎えた。




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