伊丹は摂津国猪名川上流にある郷村にあり、戦国時代は荒木村重の城下町であった。同じ猪名川沿いの池田や鴻池、武蔵川上流の小浜や大鹿などの郷とともに、室町時代中期から酒の生産を始めていた。これらの郷の酒を総称して「伊丹酒」と呼ばれていた。
1600年頃、伊丹の鴻池善右衛門が室町時代からあった段仕込みを改良し、麹米・蒸米・水を3回に分ける三段仕込みをして、効率的に清酒を大量生産する製法を開発した。伊丹で造られた酒は猪名川を船で下り、大阪湾に出て菱垣廻船や、樽廻船で江戸へ出荷されていた。しかし、幕府の酒造統制や、元禄年間の減醸令などで、伊丹の酒は次第に衰退するようになった。
西宮や灘は船積みに便利な海に面しており、六甲山からの川水を利用した水車で、大量の精米ができた。それに蔵人や丹波杜氏がおり、酒に適した硬度な水も豊富で、次第に勢力を広げるようになった。やがて、天保年間に西宮で「宮水」が発見されると、人気が人気を呼ぶようになり、灘酒は伊丹酒を凌駕するようになった。
伊丹酒は江戸末期から大正時代にかけて殆どが衰退してしまい、天下に名を轟かせた「剣菱」「男山」「松竹梅」などの銘酒の多くは、灘や北海道に買い取られていった。「白雪」「老松」などの一部は、伊丹に生き残り、往年の伝統を今日に伝えている。宮水は天保8年(1837年、一説によると天保11年=1840年)、「桜正宗」の六代目蔵元であった山邑太左衞門が発見したとされる。太左衞門は攝津国・西宮と魚崎(現在の神戸市東灘区)で造り酒屋を営んでいた。二つの蔵は酒造工程が同じなのに、味に違いがあった。西宮で造る酒の方が良質な味がしたのである。そして、太左衞門は西宮にある梅の木蔵の井戸水が、良質であることを結論づけた。当初は西宮の水と呼んでいたが、やがて略して「宮水」と呼ぶようになった。
灘の酒蔵は競って、この井戸と同じ水脈の水を使うようになった。農民のなかには、この水脈に井戸を掘り、酒蔵に水を売るようになり「水屋」と呼ばれる商売まで現れた。江戸時代後期からは、宮水は灘の酒造りには欠かせない水となった。第二次戦後には高度経済成長時代を迎え、西宮は阪神工業地帯のまっただ中に位置していたにも拘わらず、奇跡的な保全状態が保たれ、この水は環境省の「日本の名水百選」にも選ばれている。
江戸時代に上方で生産され、大消費地の江戸へ運ばれて消費されるものを「くだりもの」と云った。下りものには輸送等に莫大な費用が掛かるため、不良品や低品質のものは除かれていた。一方、江戸の方から見ると、上方から江戸にくるものは高級品ばかりであった。
その頃の江戸近郊の物産は、下りものと比較すると低品質であった。そこで、下りものではない低品質のものが、転じて低品質のものや事柄を「くだらない」と言うようになったとの説がある。
酒も同様に上方で生産されて、江戸に運ばれた酒を「下り酒」と言った。上方、特に攝津十二郷と呼ばれる伊丹や灘の周辺で産した酒は、下り酒の8割前後を占めていた。江戸時代前期は伊丹酒や池田酒がトップブランドで、江戸後期になるにしたがって、後発の灘で産出された酒が市場を席巻するようになり、高値で取引されるようになった。
現在の兵庫県西宮市・神戸市東灘区・神戸市灘区の大阪湾沿岸は、「灘の生一本」で知られる日本酒の生産地で、灘五郷と呼ばれている。酒造りに適した上質の米(山田錦)と、上質の天然水(宮水)が湧き、水上輸送に便利な港があったことで発展した。将軍の「御膳酒」にも指定された伊丹酒「剣菱」も下り酒の一つであった。剣菱酒造は室町時代である1505年の資料に記録が残っている。500年以上も続く、日本最古の蔵元である。現在まで蔵元当主が何軒か替わり、現在の当主は大正時代の末期に引き継いだ5軒目である。創業から大正時代までは伊丹で営業していたが、昭和初期になって現在の神戸市・灘区に移転した。一時期、他社から桶買い(他社から酒を買い取り、自社ブランドで販売)をしたが、大きく評判を落としたため、再び自社にて製造販売するようになった。
剣菱については、江戸時代末期に喜田川守貞が江戸時代の風俗・習慣を著した「近世風俗誌」に、産地である伊丹や池田のことが記されている。それによると「剣菱」は日本で最初に、商品名が冠された銘柄である。また「その昔は奈良の南都諸白が有名だったが、今は伊丹諸白が有名である」とも記されている。諸白とは麹米とかけ米のどちらも白米にする造り方で、現在の酒造りの原形が書かれている。この誌には剣菱のマークも書かれており、「古今第一トス」と、あるのは「昔も今も一番良い酒だ」という意味である。菱形のマークについては創業者稻寺屋伝によると、天地陰陽和合の象徴と云う説があり、上部は男性を意味し、下部は女性を現しているという。また、仕込み用水の井戸替えをした際に、不動明王の御尊体が出てきたことから、当時の醸主・坂上桐蔭が不動明王の右手に握られている降魔の剣の、刀身と鍔の形を模して酒標にしたとの説もある。1920〜30年代に開発された山田錦は、酒の邪魔になる成分が少なく、精白度を上げる必要もなく、全部酒の中に溶かし込んでも良い味になる米と云われる。
現在の剣菱も濃醇でありながら、ベタつかない甘味と、すっきりとした後味は山田錦が造りだし、しっかりとした「こし」は宮水が造りだしている。晩秋から仕込みを始め、春先から秋まで寝かせる「寒造り」と呼ばれる伝統的な製法を守り続けている。
長い歴史にあやかって、企業では年末の納会に使用したり、盆や正月に神社へ樽酒が奉納されることも多い。赤穂四十七士が討ち入り前夜に、蕎麦屋の二階で固めの杯を交わした酒は、剣菱だったと伝承されている。剣菱は物事の節目に使われる酒であるようである。
現在の醸主である白樫社長は、お奨めの呑み方として、「あまり熱くすると酒の味が無くなり、冷やすと味が隠れてしまう。常温から40℃くらいが、一番お酒の味が判る温度。5℃
違ったら酒の味は変わります」と言う。また、祖父から教わったこととして「箸洗いの酒」と言って「酒で口の中を洗う」ことが粋な呑み方だと言う。味の違う食べ物の合間に酒を頂くと、口が洗われて次の料理が新鮮な舌で、また美味しく食べることができる。それが酒の役割なのだと言う。
さらに「現代は江戸時代と同じ味と云う訳にはいかないが、この味で評判を得たのだから、この味を何時までもお客様に届けなければならない。そのためにはお酒の原料にお金を掛けませんとね」と語る。「お客様から頂いたお金も“おまえが良い酒を造っているから贅沢しなさい”と貰ったお金ではない」「お客さんは“また美味しい酒を造って下さい”という意味のお金なので、勝手に使ってはいかん。必ずお客さんの口に返す。広告宣伝にお金を使っても、酒の味は良くならない」と、白樫社長は哲学を語っている。
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