江戸時代後期、幕府は政治や経済に行きづまり、諸外国は開国を迫っていた。1841年に老中・水野忠邦が政治改革(天保の改革)を進めたが失敗、2年後には失脚してしまった。
1850年代になると攘夷論と開港論の声は、ますます大きくなり、幕藩体制は崩壊に向かって進んでいた。政治では58年の安政の大獄、60年の桜田門外の変、62年の生麦事件、64年の長州征伐、66年薩長連合の盟約成立、江戸・大坂打ち壊し運動。67年には名古屋でえぇじゃないか運動が起き各地に波及した。またこの年に王政復古の大号令がでて、68年の江戸城明け渡しによって江戸幕府が終焉し、明治維新につながっていった。
外交では52年にロシア船が下田に来港、翌年には米使ペリーが浦賀に来港して開国を迫り、幕府は開港の是非を諸侯有志に問うた。54年には日米和親条約(神奈川条約)、日英・日露和親条約を結ぶ。56年、ハリスが下田に駐在。58年には日米修好商業条約を結び、翌年には神奈川・長崎・箱館(函館)を開港して貿易を開始した。
社会生活では50年に国定忠治が処刑され、52年には銭屋五兵衛が獄死。地方では53年に陸奥一揆が起き、翌年は紀伊農民一揆が起きるなど各地で一揆が頻発した。
こんな時代背景の中で、1852年に奥州街道の岩代国安積群郡山宿中町本陣(福島県・郡山市)の隣にて、本名善兵衛が門前の茶屋として饅頭の製造を始めた。本名善兵衛はたっぷりの餡が入った皮の薄い饅頭を考案し、旅人の疲れを癒した。1887
年に東北本線が郡山まで開通した。駅開業と同時に薄皮饅頭の駅売りを始め、駅売りを始めたことで、その名は広く知られるようになっていった。
創業100年後の1952年に「有限会社 柏屋本店」として法人設立し、本店店舗を新築。
観光地として会津や裏磐梯にブームが到来するのに先駆け、「旅は磐梯、みやげは薄皮」のキャッチコピーを発表するなど、タイミングの良い宣伝活動をおこない、徐々に東京での知名度も高まった。上野松坂屋などからの出店要請に応え、1955年に東京進出を果す。
東京では薄皮饅頭が大人気となり、東京工場だけでは対応しきれずに、郡山工場から毎日3万個を「薄皮専用特急自動車」なる便を仕立てて輸送するほどになった。
人気の秘密は創業以来「餡は皮で包むものではなく、まごころで包むもの」を社是としてきた経営姿勢にある。結果として美味しさだけでなく、全てが高品質の商品に仕上がっており、土産物としての人気も得るようになった。
現在では、主力商品の「柏屋薄皮饅頭」のほか、常時500アイテムを出荷しており、季節商品を含めると、900アイテムにもおよぶ和洋菓子を製造販売しており、東北を代表する菓子メーカーに成長した。柏屋では1958年(昭和33年)に子供達の詩を集め、本店の窓に展示した。やがて子供達の詩は、児童詩集「青い窓」として創刊。その青少年育成活動は全国に広がり、その後は米国にまで広がった。この活動は柏屋の店舗や郡山市内の公共施設、地元ラジオ局での番組放送、詩集の出版、イベント開催などで、地元住民達と共に続けられている。青い窓活動の内容は、本店地下1階の「青い窓こどもアトリエ」に展示されている。
また、柏屋が自社で保有する「萬寿の森」には、菓祖神「萬寿神社」がある。この神社には、中国から初めて日本に饅頭を伝えた祖神を祀る「林淨因命」(りんじょういんのみこと=既号143.日本の味・饅頭屋繁盛伝)。日本のお菓子の原点である橘(みかんの原種)を伝えた果実と菓子の祖神を祀る「田道間守命」(たじまもりのみこと)。そしてこの世に薄皮饅頭を送り出した初代・本名善兵衛を祀る「初代・本名善兵衛命」(ほんなぜんべいのみこと)の三柱の菓祖神が祀られている。
この神社の命名は、その名が饅頭にも通じることから付けられたが、萬(よろず)の寿(ことぶき)の意味を持ち、縁結びの神社として親しまれている。多くの人達が良縁・子宝・家内安全・長寿に恵まれよう祈願し、縁結び・招福を願って「萬寿の絵馬」に、思いを託している。
こうした柏屋の社会奉仕活動は、柏屋の社員のみならず、関係する人達も一体となって、地域社会の人々の心の健康を育んでいる。1993年、薄皮饅頭の原料となる北海道の小豆が、天候不順で凶作となり収穫量は例年の半分以下となった。翌年には品質の良い小豆の確保に尽力したが、柏屋薄皮饅頭の品質に見合う小豆が確保できず。「柏屋薄皮饅頭つぶあん」は、一つも店頭に出されなかった。品質の「良い素材が入手できないときは、商品を作らない・売らない」姿勢なのだ。
柏屋の菓子作りには優先順位がある。一に安全性。二に新鮮さ。三に美味しさである。それにも増して大切なのは素材の選択である。原材料の仕入れ価格よりも、味つくりに必要な品質の徹底した見極めである。主要な原材料には、社長が自ら産地に出向き、農協や生産者と意見交換している。一方、農協や生産者には消費者の志向や売れ筋情報を提供し、生産活動に役立てて貰っている。味を見極めた素材を使用することが、顧客に対する責任であり、顧客からの信用こそが、会社の誇りになると考えている。因って、主要な原材料の産地は全て公表している。小豆は北海道のJA豊頃町及びJA帯広市川西管内産。もち米は山形県庄内産。イチゴは福島県のJA伊達みらい。黒糖は沖縄県多良間島産を使用している。顧客が納得する素材で菓子を作る事が、「顧客に対する責任であり、礼儀である」と考えている。
柏屋では1903年(明治36年)の広告には、すでに衛生面の気遣いが表現されていた。昔から顧客の利益を最優先に考え、「安全・安心」を最重要課題としてきた。2000年には商品安全宣言、安全確保経営宣言、即断・実行宣言の「商品安全3つの宣言」をおこなった。
翌年には「お客様相談室」を開設。安全で美味しい菓子の製造手法もマニュアル化したが、和菓子特有の微細な製法は、人から人への伝承が必要である。後継者の育成も怠りなく「伝承技術開発室」を中心に進められている。
1967年に四代目・本名善兵衛を襲名した現会長が、柏屋の精神的支柱となっており、昨年は創業155周年を迎えた。萬寿神社では「まんじゅうまつり」が盛大におこなわれ、地元住民達も多数参加し、地域に根ざした信頼される企業であることを実証した。
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