今から300年前、元禄時代の繁栄の後、バブルが崩壊し国の財政は破綻寸前となった。
栄華に酔いしれて政を牛耳る御側用人と、浪費癖の止まない大奥によって、国政は腐敗しきっていた。五代将軍・綱吉の死後、六代将軍・家宣が 3年、七代将軍・家継が 4年と、
共に数年の将軍職で没した。将軍家や尾張・紀伊・水戸の御三家、老中や大奥までも巻き込んだ次期将軍争いが勃発したが、その事態を制した吉宗が八代将軍に就任した。
吉宗は紀州・二代目藩主・徳川光貞の四男として生まれたが、父親の厄年に生まれたため、風習に従って家老・加納平治右衛門に養子に出され、加納新之介として育てられた。やがて藩邸に居を移した新之介は、すぐに非凡な才能を発揮することになる。藩の財政が逼迫していると知るや、五万両を用立てると宣言し、江戸の大商人・紀伊国屋文左衛門との賭けに勝ち五万両を手にする。さらに、綱吉に謁見を許され、綱吉に気に入られた新之介は三万石を賜り、越前丹生郡藩主となった。その後、父や兄達が次々と急死したため、一転して五十五万石の紀州藩主となり、天下の将軍にまで上り詰めた。松平健の主演でシリーズ化されていたTVドラマ「暴れん坊将軍」を、見慣れていたせいか、八代将軍・吉宗は、歴代の将軍と比較して、奔放で型破りな将軍としてのイメージが強い。だが、現実には将軍と云っても、全てが思い通りになるわけでは無かったという。
食事のお代わりや入浴に至るまで、日常生活にも様々な制約があり、吉宗も忠実にその決まりを守っていたという。
正室の不在が長く続いていた吉宗だが、元服を迎えたときに幼なじみの多藻と契りを結んでいた。しかし、多藻は天一坊を授かったが、吉宗の出世に伴い自分のように身分の低い女が、妻となっては行く末を邪魔すると考え、江戸の長屋に身を隠した。やがて、吉宗は綱吉の養女・竹姫を正室に迎えたいと考えたが、大奥の最高権力者・天英院の反対にあって実現しなかった。因って、大奥との関係も良くなかったと云われている。
吉宗が主導した「享保の改革」は、江戸中期に行われた幕政改革で、その後の「寛政の改革」や「天保の改革」も、これに倣って緊縮財政を基軸とした。
人事面では紀州藩人材を幕臣に多く登用し、将軍指導力の確立を図った。江戸の都市政策は江戸町奉行の大岡忠相に主導させ、町奉行所や町役人の機構改革を断行。「町火消しいろは組」を創設したが、これは火消しに止まらず、防火建築の奨励や火除け地の設定、町代の廃止や町名主の減員など、町制改革を伴うものであった。
国家政策として「倹約令」を発し、尾張・徳川宗春の奢侈を戒め蟄居を命じた。「五公五民」の増税による財政再建。「新金銀交換法」を定めた貨幣政策。「足高の制」では地位ごとに与えられる禄高を定め、役職に就いている間のみの報酬とした。
一方、庶民の要求や不満の声を募るための「目安箱」を設置。この投書から米価や物価の安定政策や、貧病民救済を目的とした「小石川養生所」を設置し、諸藩にも踏襲された。
公共政策では、「新田開発」を奨励し、飢饉対策として青木昆陽に命じて、甘薯栽培研究を命じ、朝鮮人参や菜種油、薬草、サクラやモモなどの栽培も奨励した。人口調査を行い、国民教育や孝行者・善行者への「褒賞政策」も執った。
江戸時代を通じて幕府の重臣・旗本・諸大名の間で、日常的に行われた贈収賄が社会問題となっていた。吉宗は将軍として初めて、この取り締まりに手を付けていた。新春 2日、テレビ東京から放映された 8 時間にも及ぶ時代劇「徳川風雲録」は、八代将軍・徳川吉宗の立身出世物語を、徳川御三家や大奥の陰謀が渦巻く、激動の時代を背景に強かに生き抜く姿が描かれていた。副将軍・水戸光圀、赤穂浪士事件、紀伊国屋文左衛門の出世豪遊、大盗賊・雲霧仁左衛門、大岡裁きなど、歴史上有名な逸話や講談の人気話も登場し、虚実織り交ぜた脚本は、視聴者を飽きさせない構成であった。
キャストの、紀伊国屋文左衛門を演じた西田敏行、紀州藩に恨みを持つ山内伊賀之助を演じた内藤剛志、雲霧仁左衛門の大地康雄は、役者の持つイメージと役柄がフィットしていて抵抗なく見ていられた。吉宗の父親・光貞役の松方弘樹は、重みのある演技で全体が引き締まった感じだ。元直参旗本・土屋主水之助役の松平健も、時代劇スターだけあって安心して見ていられた。一方、主演の中村雅俊は青春スターのイメージが強すぎるせいか、好演していた割には軽い感じが否めず残念であった。
久しぶりに娯楽性豊かな時代劇を観ながら、歴史本を手繰り寄せ、現代の政と比べて見るのも、正月休みの楽しみである。もちろん、傍らにある酒瓶を汲みながらであったが。『塩竈の 浦の松風霞むなり 八十島かけて 春や立つらむ』(塩釜の海岸を吹く風も 霧を含んでいるかのようにやさしく吹きわたる 数多くの島はいっせいに 立春を迎えたのであろうか)鎌倉時代前期1213年頃に作られた源実朝の歌集、「金槐和歌集」にある歌である。
日本酒「浦霞」ブランドを醸造しているのは、宮城県・塩釜市に本社を構える蔵元・佐浦である。八代将軍・徳川吉宗が享保の改革を推し進めていた 1724年(享保9年)創業の老舗造り酒屋。仙台藩では中興の名君と讃えられた5代藩主・伊達吉村の時代であった。
吉村は逼迫していた仙台藩の財政を立て直し、4代藩主・綱村が着手した塩竈神社の改修工事を完成させた人物として歴史に残っている。
塩竈神社は奥州一之宮と称され、奥州・藤原氏や仙台藩主・伊達氏からの崇敬が篤かった神社である。佐浦は仙台藩から塩竈神社の、御神酒造りのご下命を受けて以来、伝統と格式を守り続けている蔵元である。
昔は「八雲」「富正宗」「宮城一」の酒銘を、並酒・上級酒・特級酒に使用していた。大正時代に東北地方で陸軍大演習があった折り、当時の摂政官であった昭和天皇に、お酒を献上する栄を賜った。それを機に歌人としても知られた、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が詠んだ歌から「浦霞」の二文字を頂き、超特級酒の銘柄名とした。昭和時代になり、戦時下の級別制度開始により、ブランド名を「浦霞」に統一した。
「大吟醸 浦霞」は最高級の酒米「山田錦」を、半分以下の4割まで磨き込んだ原料米で造っている。年に一度の限定販売商品である。果実を思わせる気品ある吟香と、香気の割にさっぱりとした、軟らかい味わいを兼ね備えている。アルコール分は 16度以上 17度未満、日本酒度は+4.0である。通好みの良酒として数々の賞を得ている。第25回全国酒類コンクールにおいても、「吟醸・大吟醸部門」で、専門委員による審査、一般人気(公開ティスティング)の両方で第一位に推された。蔵元では購入後は冷蔵庫で保管し、開栓後は早めに飲みきるように奨めている。
「純米吟醸酒 浦霞禅」は1970年代に発売されたが、地酒ブームに乗って、吟醸酒の存在を広く世間に知らしめた立役者である。化粧箱に仏僧の禅画があしらわれており、フルーティーな香りとスッキリとした味わいで、多くのファンを獲得。冷酒にするのがお奨め。
「エクストラ大吟醸 浦霞」はコルク栓の瓶に詰めて、低温冷蔵庫でじっくりと熟成させるという、挑戦的な酒造り手法を試みた吟醸酒である。
「大吟醸 槽掛け雫石 浦霞」は寒造りの酒を、低温熟成させた逸品で、日本名門酒会加盟店でしか扱っていない稀少品である。ANAの国際線ファーストクラスでも採用された。
「木桶仕込み山廃純米酒 浦霞弐百八拾号」は約半世紀ぶりに復活させた、木桶仕込みの純米酒である。昔ながらの酒造りを意識して、伝統的な山廃酒母で造られている。
蔵元・佐浦では、全国からの注文が集まり、時には入手困難な商品も出ているが、他社からの「桶買い」(買い酒=売り主ブランドの商品を他社に造らせる)は一切していない。自前で醸した酒だけを出荷し続けており、南部杜氏の匠を今に受け継いでいる。
13代目となる佐浦弘一社長は、日本酒造青年協議会会長を務め、日本酒業界のリーダー的存在である。酒造会社の若手経営者らが結成した任意団体「酒サムライ本部」の代表も努めており、酒造りを一般人に教える「浦霞日本酒塾」も開いている。
経営理念は「日本酒の製造・販売を通して、豊かさや安らぎ、潤いを多くの人々に提供する」会社の基本方針は「本物の酒を丁寧に造って、丁寧に売る」と定めている。
この理念や方針の意味するところは、吉宗の政や、現代における私たちの仕事にも通じるものがある。新年にあたり、改めて心すべき事ではないだろうか・・・。
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