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大正時代の末期、昭和の時代を代表するブランドが北海道で誕生した。1925年(大正14年)5月、北海道の酪農家たちの加工販売組織として、北海道製酪販売組合が設立された。7月にはバターの製造を開始し、翌年12月には「雪印」のブランド名を決定する。昭和3年にはアイスクリームの製造開始。昭和8年チーズの製造開始。昭和14年マーガリンの製造開始と成長を続け、昭和25年に雪印乳業を設立した。同年 乳業以外の雪印種苗、雪印食品などを分離設立した。昭和30年には八雲工場の脱脂粉乳食中毒事件が発生したが、昭和33年にはクローバー乳業と合併し、新生「雪印乳業株式会社」が誕生した。北海道と食品の清潔さをイメージさせる「雪印」ブランドは、昭和時代の高度成長、消費拡大ブームと共に、乳製品業界の最大手に成長していった。
平成12年3月、大樹工場で停電事故が発生する。脱脂粉乳の原料タンクに使用している冷却器が動作不能になり、黄色ブドウ球菌が増殖していたのを気づかずに大阪工場へ出荷された。6月になってから大阪工場で製造された低脂肪乳を飲んだ人々に食中毒が発症し、約13.000人の被害を出した戦後最大の食中毒事件となってしまった。平成15年5月に大樹工場の元工場長、元粉乳係主任に執行猶予付禁固刑、会社には罰金50万円が大阪地裁で言い渡された。大阪地裁の裁判長は「過去にも同様な食中毒事件を起こしているにも拘わらず、温度管理を含む安全衛生への注意を怠った」と指摘している。又、元工場長は営業停止処分を恐れるあまり、保健所に虚偽の報告を出していた事も判明。平成 13年には子会社の雪印食品がBSE対策で国の買い上げ政策に便乗した、牛肉偽装事件を引き起こす。発覚したのは翌14年の1月である。これにて消費者は誰も「雪印」ブランドを信用しなくなり、80年間も積み重ねた信頼が一挙に崩壊してしまった。
平成 10年2月17日 長野オリンピック、ジャンプ競技団体戦2回目のスタート台についた原田雅彦(雪印所属)は4年前のリレハンメルオリンピックの事を思いだしていた。岡部孝信(雪印所属)西方仁也(雪印所属)葛西紀明(土屋ホーム所属)と共にジヤンプ競技団体戦の金メダルを、ほぼ手中に収めていた日本チーム。普通に飛べば勝てる筈の 2本目。原田は失速した。着地後その場にうずくまったまま、原田は暫く立ち上がる事が出来なかった。チームは札幌オリンピック以来の悲願は叶わず銀メダルに終わった。そして、今日も1回目79.5メートルの失敗ジャンプで日本チームは4位に止まっていた。2回目に入り先発 岡部孝信(雪印所属)が137メートルを飛んで1位に戻していた。二番手の斉藤浩哉(雪印所属)も124メートルと無難に終えた。2回目に挑む三番手原田は4年前の悪夢と、その後のファンの非難中傷、4年間の苦闘が脳裏をかすめた。意を決してスタートした原田は・・。「原田〜 立て!立て!立った〜」絶叫するアナウンサーの実況。日本中を感動の渦に巻き込んだ、137メートルの大ジャンプは日本の金メダルを決定的にした。四番手の船木和喜(デサント所属)はK点越えのジャンプで国民期待のメダルを獲得した。試合後のインタビューで原田は「辛かった。またみんなに迷惑を掛けるのかと思って・・」と涙ながらに語った。復活を遂げた原田は、その後のインタビューで「あの時の白馬で泣かなかったら、いつ泣けばいいのですか!」苦悩を乗り越えた男のセリフであり、「雪印」のブランドイメージを高めた所属選手達の活躍でした。
平成 14年秋から 15年春にかけて、「雪印」ブランドは崩壊してしまった。雪印乳業はバター、チーズ、マーガリンを中心とした業務に縮小した。アイスクリームはロッテと資本提携したロッテスノーへ。牛乳は全農など3社と資本提携した日本ミルクコミュニティへと移行してしまった。本稿を書くにあたって調べて見たが、昭和30年の食中毒事件は雪印のブランドイメージが未だ大きく無く、国民も一過性の事件としか認識していなかったようである。今回も 12年6月末に食中毒事件が報道された。手元にある雪印のバター、チーズ、マーガリンの市場シェアを見ると、半年後には回復しているのである。日本の消費者は寛容な消費者である。経営陣はこの商品力の強さと寛容な消費者を侮ってしまったようである。事件発覚後の報道陣に対する社長の言動等を見ると、運が悪かった程度の認識しかなかったのではないだろうか。それが牛肉偽装事件の発覚後には消費者の堪忍は限界に達していた。消費者がイメージする雪印ブランドの崩壊は決定的となってしまった。現在、「企業倫理委員会」「新企業理念・新ビジョン・行動基準」などを制定して信頼回復に努めているようである。「当たり前の事が、当たり前にできる企業風土」の再構築である。スキー選手達に見る、さわやかな「雪印」の復活を祈るばかりだ。
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