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1848年、デンマークの詩人・童話作家であるハンス・クリスチャン・アンデルセンが「マッチ売りの少女」を刊行した。日本で明治維新がおこる20年前である。この頃にはヨーロッパで日常的に、マッチが使われていたことが窺える。日本では1869年に金沢藩の清水誠なる者がヨーロッパに渡り、マッチの製造技術を学んで帰国。その6年後に東京・三田四国町にてマッチ製造会社をおこした。維新後の国内は士族救済が叫ばれていた時期で、明治政府は士族の授産事業としてマッチ工場の設立を奨励した。
兵庫県にもマッチ工場が造られたが、国内は激動の時代を迎えていた。政治的には1877年に西南の役が起こり、木戸孝允や西郷隆盛が自殺し、翌年には大久保利通が暗殺された。
その後は1890年の第一回帝国議会の開催に向け、板垣退助らにより自由党が結成される。
経済の方は1873年に第一国立銀行の設立を始めとし、その後は次々と銀行が設立された。
1873年には地租改正条例が公布され、4年後には地租減免の一揆が起きる。翌年に地租は軽減されたが、過度のインフレが発生。1882年に日本銀行が創立されて、不換紙幣の整理に乗り出す。そのため今度はデフレ傾向が著しくなり、経済界には大不況が到来。1885年になって日本銀行より、兌換紙幣が発行され、ようやく落ち着きを取り戻すことになる。
このように政治・経済が混乱したなか、武家の商法では持ち堪えられる筈もなく、工場の職工達が次々と独立して会社を興した。これが兵庫県のマッチ産業の始まりであった。
マッチが兵庫県の地場産業として発展したのは、第一に貿易港として栄えていた神戸港があり、原材料の輸入や製品の輸出が容易だったことが挙げられる。次に、雨が少なく温暖な瀬戸内海性気候のため、天日干しが容易で製造に適していたこと。また、新しい物に取り組もうとする播州人の、気質にも適した仕事であった。結果として官営から民営へ事業転換する構造改革が成功した最初の事例となった。これらの理由から兵庫県は、マッチ生産の中心地となり、現在においても全国生産量の90%を占めている。
ダイドーは兵庫県・神戸市に本社を置く、1897年創業のマッチの老舗メーカーである。
前身の日本紙軸燐寸製造所は、1939年に会社組織化に伴い船井燐寸株式会社に社名変更。
さらに5年後に大東燐寸工業株式会社となる。さらに1973年に日本燐寸株式会社と合併し
てダイドー工業株式会社となる。社名は合併しても大同団結しようと云う、決意を込めて名付けられたという。
マッチに関してはメーカー名を意識して使っている人は、殆どいないのが実態であろう。しかし、中高年の人ならば絵柄を見ると、誰もが直ぐに判るのである。お馴染みのパイプ印のマッチが登録商標として誕生したのは、1904年のことであった。パイプ印のマッチラベルはデザインもシンプルで、多くの愛煙家に使われた。ダンディで有名だった映画監督の伊丹十三もマッチの愛好家であった。作家の村松友視が「英国のロスマンズを好んで吸っていたようだが、ライターは持たずにパイプマッチを持ち歩いていた」と書いている。
パイプマッチは第二次世界大戦後の、1949年から国内向け生産が開始されたが、輸出品同様に国内でも好評を得て、パイプ印のマッチは庶民の生活必需品となった。
当時は東京向けと地方向けに出荷されたものは、ラベルの色や軸頭の火薬部分の色が違っていた。東京向けの軸頭は黒色で、地方向けは赤色だった。黒い火薬は塩素酸カリの量が多いため、湿気に強く燃え方にも勢いがあった。それが東京の人には大変好まれたという。
現在でも地方によって、色の好みが根強くあると云われる。
人間と動物が最も違うのは、火を制御する能力だと云う。人類は古代より火を熾すことに苦労してきた。日本でも1875年(明治8年)にマッチが製造されるまでは、火打ち石が主な発火方法であった。長い歴史を考えると、それほど昔の事ではないのである。
1673年四代将軍・家綱の頃、ドイツでは錬金術師のブラントが初めて燐を製出した。それから約130年後の1805年に、フランスのシャンセルが塩素酸カリと濃硫酸で発火させる浸酸マッチを発明。その22年後にイギリスのウォーカーが、現在のマッチの原形となる摩擦マッチ(黄燐マッチ)を発明し、翌年に実用化された。さらにその3年後にフランスのサウリヤによって、工業的にマッチが造られるようになった。しかし、黄燐マッチは毒性が強く、職人が黄燐を含む蒸気を吸い込み治療不能になったり、幼児が軸頭を舐めて死亡したり、殺人や自殺にまで使用された。さらに輸送中の摩擦で発火する事故も多発し、安全なマッチの開発が急がれていた。日本では1847年には兵庫県・加古郡の蘭学者川本行民が、燐を用いたマッチを造ったと古書に残されている。1854年にシャロッタ博士が赤燐を発明して、現在の安全マッチの先駆となる。この頃はヨーロッパ各地で赤燐を使ったマッチの開発が行われた。スェーデンでは燐を含まない軸頭がついた軸木を小箱に収め、箱の側面に赤燐を側薬として塗布した分離型の、安全マッチが発明され広く販売されるようになった。1862年になりフランスのルモアンが、毒性の少ない硫化燐を発見。それから34年後の1898年にフランス専売公社が、硫化燐を使った摩擦マッチを造り特許を得る。日本ではその間の1875年に清水誠がマッチ製造を始め、各地にマッチ工場が造られた。イギリスでも1900年にフランスの許可を得て硫化燐マッチの生産を始める。
一方、アメリカでは黄燐マッチの毒性の認識が高まったが、需要は衰えることなく、輸入品には禁止的重税を課したが、国内生産は継続していた。1920年にはワシントン国際労働会議により、2年後に黄燐マッチの生産は全面的に禁止となった。それにより、硫化燐マッチが造られるようになった。このマッチは西部劇でカウボーイが、靴底やベルトに擦って点火する喫煙シーンに見られ、アメリカ人好みのマッチであった。
日本の輸出については、1878年に始めて輸出された記録が残っている。金額は2万4千円とのことだが、現在では約2億円(正確な統計資料が無いため、幾つかの消費者物価等の資料をつなぎ合わせると、消費者物価は1873〜2000年で約8300倍となる)である。
1893年には日本郵船のボンベイ航路が開設され、インドへの輸出が始まった。また、日本独占の細軸安全マッチが製造され、神戸にある清商によって南清(現・中国)へ輸出される。この当時のマッチは、お茶や紡績と並び輸出の花形産業となった。1907年には日本における輸出総額の40%を占める重要な輸出産業に成長した。
マッチの消費量のピークは1973であった。この年は業界全体で約80万トン生産された。
国民一人当たりに換算すると1日7〜8本使っていた計算だという。その後は使い捨てライターの普及や、圧電式や電池を使ったガスコンロの普及もあり、マッチの消費量は急速に落ち込んだ。現在のマッチ消費量はピーク時の約5%程度にまで落ち込んでいる。
ダイドーは1978年に製造部門を整理して、販売専門の株式会社ダイドーとなった。現社長は創業者から数えて八代目である。最近はレトロブームもあり、パイプ印のパッケージデザインは、改めて注目が集まり、コレクターの人気も高いものがある。
現在ダイドーでは、関東以西向けにパイプ印マッチ、東北・北海道向けに旭馬印マッチを出荷しており、それぞれ並型と家庭用小型を販売している。スーパーダイエー向けにもホームマッチとして並型と家庭用小型を供給している。その他広告用マッチや意外に思うような製品として、カイロや瞬間冷却パック、コースターなどの雑貨、業務用の酸素系漂白剤なども販売している。
ダイドー110余年の歴史の中で、最も誇りとしているマッチがある。天皇陛下のお印、皇后陛下のお印がついた特性のマッチである。一般の人が買うことの出来ないこのマッチは、1965年から宮内庁御用達として納められている。
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