ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 239

☆ オリンピックとオニツカの靴☆

2009.02.11号  

 1964年の東京オリンピックで、オニツカの靴を履いた世界のアスリート達は体操、レスリング、バレーボールなどの競技で、金メダル20個、銀メダル16個、銅メダル10個の計46個のメダルを獲得する大活躍だった。
オニツカの前身は1949年3月に神戸で鬼塚喜八郎が、バスケットシューズ製造販売会社の鬼塚商会を興したことに始まる。同年9月には鬼塚株式会社として法人組織とした。会社設立の動機は、終戦直後の闇市で少年少女達を見て、スポーツによる心の復興を願っての事であった。喜八郎は全国を営業して歩き、選手や監督に直接意見を聞きながら改良を進め、やがて高校の運動部を中心に製品が売れるようになった。創業当時のブランドは、スポーツシューズに相応しい敏捷性と強さを表すものとしてタイガー印を採用した。しかし、虎印の商標権は既に他社が取得していたため、虎の絵の下にタイガーの英文字を入れたマークにし「鬼塚タイガー」とする。牙をむいた猛々しい虎が印象的なマークであった。
アイデアマンの喜八郎は、タコの吸盤にヒントを得た吸着盤型バスケットシューズや、バレーボールシューズ、マラソン用足袋など次々と新しいシューズを開発し、鬼塚タイガーの名を全国に浸透させていく。
1953年に自社工場タイガーゴム工業所を開設し、マラソンシューズの開発を始める。1956年にはメルボルンオリンピック日本選手団用に、トレーニングシューズが採用され、スポーツ界での認知度が格段に高まった。翌年にタイガーゴム工業所を改組して、オニツカ株式会社を設立。1958年にオニツカ株式会社を存続会社として、鬼塚株式会社と販売子会社の東京鬼塚株式会社を吸収合併。その後の東京オリンピック銅メダルの円谷幸吉、メキシコ銀メダルの君原健二が、オニツカのシューズを履いていたことで、スポーツ用品メーカーとして世界市場での地位を確立。1977年には同業2社と合併し、現社名「アシックス」が誕生。現在の連結売上構成はシューズ66%、ウェアー24%、スポーツ用品10%となっており、総合スポーツ用品メーカーとして世界中のアスリート達に製品を提供している。

 1960年にアベベ・ビキラはエチオピア代表としてローマオリンピックに参加した。アベベがローマに着くと、偶然にも靴が壊れてしまい、買おうと思ったが自分に合うサイズが無かった。やむなく裸足で走ることにしたが、2時間15分16秒の世界最高記録で優勝。
エチオピアは1937年から41年までイタリアに侵略占領されていた。そのイタリア・ローマで行われたオリンピックでのアベベ優勝に、エチオピア国民は熱狂し、マスコミは裸足の王者と呼び、アベベは一躍エチオピアの英雄となった。このレースの前まで無名の選手であったアベベは、コンスタンティヌス凱旋門のゴールに入ってくるとき、各国の報道関係者の誰もが「あれは誰だ」と騒然となったという。この快挙を成し遂げたアベベを指導したのが、スウェーデンから招いたコーチのニスカネンであった。エチオピアでは国土全体に高原地帯が広がっており、ニスカネンは高地トレーニングを取り入れていた。これがきっかけとなってマラソン界では、高地トレーニングが広く取り入れられるようになった。
1961年にアベベは大阪で行われた毎日マラソン出場のため来日。このレースではコース内に群衆が入り込んだり、対向車線の車やオートバイが危なくて立ち往生したり、気温27度に湿度が77%と、幾つもの悪条件が重なり、優勝はしたものの2時間29分27秒と平凡なタイムだった。このレースもアベベは裸足で走る予定でいたが、前年のオリンピック優勝者を表敬訪問した喜八郎は「日本の道路はガラス片などが落ちていて危険である。裸足の感覚で走れるような軽い靴を提供するから」とマラソンシューズを履くように説得した。
それを承知したアベベはオニツカのマラソンシューズを履いて走り、見事一位でゴールイン。優勝を喜んだ喜八郎は、その後もアベベのもとにシューズを送り続けていた。
3年後の東京オリンピックでは、アベベはレースの6週間前に盲腸の手術を受けていた。
充分なトレーニング期間を得られなかったが、再び2時間12分11秒の世界最高得記録で優勝。オリンピック史上でマラソンの連覇は初めての快挙であり、オリンピックで世界最高記録を出して優勝した者は、後にも先にもアベベ一人である。喜八郎はこのレースでもアベベはオニツカのシューズを履くものと思っていたが、アベベが履いていたのはプーマだった。この頃は特定のスポーツ用品メーカーが、選手との専属契約をするような概念が無く、喜八郎も苦笑せざる得なかったようだ。

スニーカーやスポーツウェアーなどの関連商品を扱うナイキは、スタンフォード大学で経済学を学んだフィル・ナイトと、オレゴン大学の陸上コーチであったビル・バウワーマンが設立したブルーリボンスポーツ(BRS)が前身である。1963年にナイトは卒業旅行で日本に立ち寄り、偶然にオニツカのシューズと出会った。オニツカシューズの品質の高さと価格の安さに感動し、その足でオニツカを訪ねた。アメリカでオニツカシューズを販売させて欲しいと申し出て、ナイトは帰国するとバウワーマンとBRSを設立。オニツカシューズの輸入販売代理店としての業務を開始する。
アメリカ西海岸エリアを中心に販売は順調に推移。やがてBRSがデザインしたシューズをオニツカが製造販売する契約も締結。その後BRSは「ナイキ」ブランドを創設し、より高い利益を求める戦略を執った。オニツカタイガーの技術者引き抜くなどして、オニツカのライバルメーカーである福岡のアサヒコーポレーションに生産を委託し、それをナイキブランドで販売するようになった。因って、ナイキが初期に販売していたコルテッツ等のシューズは、殆どが日本製であった。BRS側からすると仕入先の変更ということになるのだが、提携終了後にもオニツカ側は、バウワーマンがデザインしたシューズを販売していたため、BRSは訴訟を起こす。裁判の結果、オニツカはBRSに対して1億数千万円の、和解金を支払うハメになってしまった。

 1977年に3社合併してアシックスとなっても、オニツカの伝統を引き継いだスポーツシューズには高い評価があり、とくにマラソンやバレーボールシューズでは、高いブランド力を誇っている。アシックスに社名変更する前の、オニツカタイガーのブランドは、レトロな雰囲気から根強いファンも多い。そのためファッションアイテムとして人気が復活し、2002年より再び一般向けのブランドとして製造販売されている。また今年は会社設立60周年を迎え、シューズやウェアーのスポーツアパレルを「還暦コレクション」として発表。
燃え上がるような赤を基調としたデザインだが、還暦と云うよりもエイジレスなパワーを感じさせるデザインで、ファンを喜ばせている。
アシックス社名の由来には諸説出回ったようだ。シューズが主力商品だったことから、足に無限の可能性を表すXを加えた足X説。3社合併時に3人の代表で、脚が6本となるので脚シックス説もあった。後に喜八郎も「これには参った」と日経新聞「私の履歴書」で述懐している。古代ローマの詩人ユウェナリスが、遺した誰もが知っている有名な一節がある。「もし、神に祈るならば、健全な身体に健全な精神があれかし、と祈るべきだ」とのラテン語が由来。Mens Sana in Corpore Sano という詩句が原典となっている。精神は Mens という言葉で表しているが、これを躍動する精神というニュアンスを持つ Anima に書き換え、より動的な意味合いを込めて、その頭文字をとってASICSとした。
アシックスではユニフォーム・サプライメーカーとして、多くのチームにユニフォームを提供している。サッカーでは川崎フロンターレやヴィセル神戸など。バスケットボールでは日本代表チームやJOMOサンフラワーズ。バレーボールでは全日本男子チーム、イタリアやドイツには男女の代表チーム。ハンドボール全日本代表チームなどに提供している。
又、多くのアスリート達とも個別契約を結んでいる。プロ野球選手のスパイクではイチロー、工藤公康、立浪和義、高橋由伸、仁志敏久、福留孝介、清水隆行、金本知憲等がいる。
シューズではサッカーの川口能活、三都主アレサンドロ、小野伸二。バレーボールの山本隆弘、竹下佳江。バスケットボールの佐古賢一、卓球では四元奈生美など様々な競技で多くの選手達と契約している。水泳では日本水泳連盟から代表選手のために、各種用品を提供するオフィシャルサプライヤーの一社に指定されており、契約選手にはアテネオリンピックと北京オリンピックの2大会連続で銅メダルを獲得した中村礼子がいる。オリンピック女子マラソンでは2000年のシドニーで優勝した高橋尚子、2004年アテネで優勝した野口みずきと、契約選手が2大会連続で金メダルを獲得している。


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