|
1911年12月12日、東京・銀座に白亜の館が出現した。日本の喫茶店の原型をつくった建物である。当時としては破格の一杯五銭で本格的なコーヒーを出し、一個五銭のドーナツに、五銭で鳴り出すオルゴール。パリの有名な喫茶店プロコックをモデルに造られた店で、人々は何時間も語り合うのが楽しみだった。この店の名はカフェーパウリスタ。常連客には水上滝太郎、吉井勇、菊池寛、芥川龍之介、与謝野晶子、徳田秋声、獅子文六など大正時代の文豪達や、劇作家の小山内薫、画家の藤田嗣治などが名を連ねた。また後年、ビートルズのジョン・レノンとオノ・ヨーコがお忍びで通った店としても有名。現在も多くの人達に愛され続け、日本のコーヒー文化の歴史に、その名を刻んできた。「銀ブラ」という言葉が生まれたのは、1913年だと云われる。水島爾保布は「新東京繁盛記」の中で、この言葉は「三田(慶応大学)の学生達の間で云われた」と書いている。当時を25年も経って回想した宇野浩二は「佐藤春夫が山高帽を被り、その山高帽に大変よく似合う洋服を着て、珈琲沸かしの側の台の前を、横切るように通った洋風の姿を思い出す」と語っている。慶応に通っていた佐藤春夫は「慶応で相手が捉まると、芝公園をでて新橋駅待合室経由パウリスタというのが、我々の定期航路になっていた」と書いている。そして、我々と言われた仲間の一人である久保田万太郎も「三田から銀座カフェーパウリスタに、一杯五銭のブラジルコーヒーを飲みに行くことが“銀ブラ”の語源である」と明確に書いている。宣伝コピーは「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き、コーヒー」であった。因みに、パウリスタとは「サンパウロの人」という意味である。
創業者は「移民の父」と呼ばれた水野龍で、ブラジルへの日本移民の道を開いた人物である。日本人の海外移民の歴史は古く、17世紀初頭にジャワのコーヒー園に500人が雄飛した記録が残っている。本格的な移民は1885年のハワイ移民である。何れも移民の多くはコーヒー栽培に従事していた。水野は1904年に「皇国植民合資会社」を設立して海外に志を立てた。1906にブラジルに渡った水野は、サンパウロのコーヒー耕地が日本農民の移住に好適地であることを知り、現地を訪れて実情を確認した後、大規模な移民計画を立てる。そして水野はサンパウロ州政庁と交渉の末、コーヒー農園の契約労働者として日本人移民を受け入れさせることに成功した。1908年には「日米紳士協約」によって、ハワイ移民が厳しく制限されるようになり、新開地を模索しなければならなくなった。同年、偶然にも時宣を得た水野は皇国植民合資会社から、ブラジル移民第一陣をサンパウロに向けて送り出す事になり、自ら移民団長として781人の移民達と共に笠戸丸に乗り込んだ。そして以後、10回の渡航で総計1万5千人の日本人がブラジルへ渡ったのである。しかし、統率者である水野の苦労が始まるのは、移民団を送り出した後のことであった。地球の反対側にある遠い異国で、移民達を待ち受けていたのは、コーヒーの不作や炎天下の重労働と風土病であった。人々は挫折し脱落者も出る始末であった。水野は必死の思いで、そして根気強く「諸君は日本を代表し、この地の開拓移民として、日本からはるばる渡って来たのである。諸君の手から収穫される珈琲は、すなわち日本の国産品であると言っても過言ではない。後続の第二、第三の移民のためにも、万難を克服して努力されたい」と説得を繰り返した。
ブラジル政府は第一回移民団を送り込んだ翌年に、水野の功績に報いるため。毎年、コーヒー1500俵の無償供与を約束。併せて日本におけるブラジルコーヒーの宣伝と普及を委託してきた。それと東洋におけるブラジルコーヒー販売権を特権として与えられることになった。そこで水野は資金繰りに奔走。大隈重信らを説得して後援を得る。数名の同志とともにサンパウロ州庁専属ブラジルコーヒー販売所を合資会社として設立。その翌年には株式会社カフェーパウリスタを設立。正社員200名、従業員2000名の大組織であった。水野は朝野の名士を招いた披露の席で「コーヒーを売るのは友邦ブラジルの負託に応えることであり、且つ日本文化の向上に資することなのだ。カフェーパウリスタはそういう事業を行っているのだという使命感に燃えている。因って意気込みが違う」と挨拶。さらに「今日、皆様に供するコーヒーは日本移民の労苦がもたらした収穫物で、この一杯には、その人達の汗の結晶が溶け込んでいる」と語った。この言葉通り、カフェーパウリスタはコーヒー普及の為の企画を次々と打ち出し、全国的規模で販路拡張に尽力した。人の集まる処へ出向いて試飲会を開いたり、学校の運動会や会社の慰安会などでは無料サービスを行ったり、愛好者を増やすことに尽力した。宣伝方法も奇抜で洒落ていた。身長1メートル80余の大男が燕尾服を着て、美少年給仕を従え、銀座通りの道行く人に試飲券を配るのだった。その試飲券には「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き」のキャッチフレーズが記されていた。これは「今日は帝劇、明日は三越」のキャッチコピーと共に大正時代の名コピーと言われている。さらに、女学校出の婦人にデパートの洋食器売り場にコーヒー茶碗が並び、西洋風の新しい生活への憧れを誘ったのもこの頃であった。
1923年9月1日、いつものように正午を告げる空砲がドーンと鳴って、昼食を求める人達で賑わう筈であった。しかし突然、関東一円を史上最大の激震が襲ったのである。東京は3日間燃え続けカフェーパウリスタの白亜の館も瓦礫と化してしまった。この関東大震災はカフェーパウリスタにとって、事業規模を大きくしすぎた反動と、折からの不況で経営が深刻化している矢先の事であった。大きな痛手となり変身を余儀なくされてしまう。加えて、まもなくブラジル政府からの、コーヒーの無償供与契約の期限をむかえ、ブラジルコーヒーの普及宣伝の任務も完了する時期と重なったのである。その後は遺された資産で、焙煎卸売り事業を中心に営業を再開させる。震災後は東京駅の開業に伴う丸の内周辺の開発や、東京市電の整備などにより、百貨店や劇場、カフェーなどが次々と銀座で開業した。震災恐慌などで日本中が不景気に見舞われても、銀座周辺は発展を続けていた。昭和の時代になっても、アメリカ・ウォール街で端を発した金融恐慌が荒れ狂うなかでも、アール・デコの影響を受けたモダンボーイやモダンガールと呼ばれる人達が町を闊歩し、途中で一休みする「銀ブラ」が全盛を極めた。その後は第二次世界大戦が勃発し、1942年に政府の指示により「日東珈琲」と改称する。戦後の1947年に現社長・長谷川浩二の父君・長谷川主計が事業を継いで、創業者・水野の理想を守り続けた。1969年、新たにカフェーパウリスタを設立。カフェーパウリスタは日本のコーヒー店の先駆けと云われるが、それまでにも東京にはコーヒーを飲ませるカフェーは幾つもあった。しかし、それまでのカフェーは女性がコーヒーを運ぶという風俗営業的な側面もあったらしい。そのため値段も高く15銭くらいしていたそうである。創業時の白亜の館は、総面積300坪、一・二階が喫茶室、三階が事務室と従業員室に充てられていた。様式はプロコックを模しただけでなく、南米風も加えた斬新なスタイルで、二階には当時としては画期的な、レディースルームまで造られていた。この部屋は数寄屋造りを配した和洋折衷の内装が話題を呼んだ。当時はこのようなハイカラな雰囲気の中で、本格的コーヒーを楽しませ、且つ五銭という低価格は圧倒的支持を得た。現在の本店は銀座8丁目のビルの一階にある。喫茶店といえば美味しいコーヒーに、ゆっくりと燻らす一服は至福のひとときである。店内は喫煙者にとっては嬉しい分煙となっている。静かな店内には近隣の老舗の店主たちや、買い物帰りのミセス達の憩いの空間として利用されている。そして思わずニヤッとしてしまうサービスがある。「あなたは本日、銀ブラ(銀座通りを歩いてカフェーパウリスタにブラジルコーヒーを飲みに行くこと)を楽しんだことを証明します」という、ポイントカードを兼ねた「銀ブラ証明書」を発行してくれる。チョット嬉しくなるサービスである。「銀ブラ」という言葉は、今でもモダンな響きがあるが、カフェーパウリスタも創業100年に成ろうとするモダンな老舗である。2月17日には千葉県・市川市に、コーヒービーンズショップ行徳店がオープンした。
|