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グンゼは繊維製品の製造・販売メーカーで、肌着や下着は業界トップ。創業は1896で、110余年の歴史を持つ。近年はプラスチック製品や、電子部品の製造も手掛けている。
社名の「グンゼ」は、国の基本方針は国是、会社の基本方針を社是と云うように、創業地の何鹿郡(いかるがぐん=現・京都府綾部市)の地場産業である蚕糸業を、郡を挙げて新興していこうとの、趣旨に基づいて命名した郡是製糸株式会社に由来している。丹後地方の「丹」と、太陽の「陽」を組み合わせた「丹陽」も候補になったが、創業者・波多野鶴吉は「蚕業奨励ノ機関タルニアルヲ以ッテ経営スルコト」との精神から「郡是」に拘った。
明治政府は殖産産業を振興し、外貨獲得を目指していた。しかし、当時の京都産生糸はあまり品質の良い物ではなかった。波多野鶴吉は地元の小学校で教員をしていたが、故郷である何鹿郡を、蚕糸業を基盤として振興する夢を抱いていた。波多野が何鹿郡の蚕糸業の初代組合長に就いてから、10年後の1896年8月10日に郡内の養蚕家に出資を仰いで、郡是製糸株式会社が設立された。初代社長には羽室嘉右衛門が就任。地場産業の振興という波多野の強い信念は、1900年のパリ万国博覧会で見事に結実し、何鹿郡の生糸は金牌を獲得した。波多野は地域振興という公的な仕事に奔走したが、それも一段落した1901年に一人の事業家として二代目社長を継承する。1904年セントルイス万国博覧会でも最高賞牌を受賞。かつては粗悪品と酷評された品質は、世界に認められることになった。波多野の事業への取り組みは、元教員らしく「挨拶をする」「履物を揃える」「掃除をする」ということを、会社の行動規範とし「3つの躾」として受け継がれるようになった。
1946年にメリヤス肌着の生産を開始し、1953年には「金の品質・銀の価格」のキャッチフレーズで、メリヤス製品が爆発的に売れ、広島と九州にメリヤス代理店会「郡是会」を結成し、順次全国的な組織となっていく。翌年にはミシンの普及により、ミシン糸事業開始。
1967年には現社名・グンゼ株式会社に変更された。
現在のグンゼは大阪市・北区梅田に本社、東京都・中央区日本橋に東京支社を置くが、登記簿上の本社は創業の地・京都府綾部市に置いている。綾部駅北口一帯はグンゼの社有地で研究所や工場のほか、1933年築の本社、1917年築の旧本社(現・グンゼ記念館)、大正初期に建てられた繭蔵(現・グンゼ博物苑)などがあり、旧本社工場の正門や大正後期に建てられた郡是製糸蚕事所本館など、歴史的建造物が並んでいる。
グンゼの地域振興は社員はもとより地域住民の福利厚生にまで貢献、1927には郡是病院を開設。1990年7月に綾部市立病院に、役割を引き継ぐまで地域医療を担った。市内には予約制ではあるが、グンゼ理容室まである。
1934年にはフルファッションの靴下の生産を開始し、実用品からファッション性を持たした製品を開発するようになった。1950年にはナイロン製のフルファッション靴下の生産を開始。1968年にはパンティストッキングの生産を開始する。
最近のビッグヒットは、何と言っても神田うの(既号234.可愛さと実用のバッグ)とコラボレートした「トゥシェ・ウノコレクション」のストッキングであろう。イメージモデルをやっていた神田うのが、センスの良いファッションを身に付けているのを見た担当者が、柄ストッキングのデザインについてアドバイスを求めた。デザインのアドバイスを受けているうちに、グンゼでトウシェ・ブランドの拡大戦略が持ち上がり、コレクションのデザインを彼女に依頼。商品化されるまでは試行錯誤の連続であったが、苦労の甲斐あって一つのブランドが、300万足売れれば大ヒットと言われる業界で、最初のシーズンでいきなり580万足をセールする快挙を成し遂げた。5年後には1700万足を超え、今でも記録を塗り替え続けるメガヒット商品になった。トゥシェ・ブランドは神田うのプロデュースによる、高いファッション性とトレンドをリードするブランドとして位置づけられており、レッグ&ランジェリーのインナーファッションをトータルコーディネートして提案している。
アメリカでミュージシャン・画家・俳優・映画監督と大活躍のヴィンセント・ギャロは大のグンゼファンである。白いブリーフの愛好者で、1998年に自ら監督・主演した映画「バッファロー’66」に、着用している姿が写されている。以前来日した際には、100枚以上のブリーフを購入しており、パンツやシャツを定期的に、日本から取寄せていると言う。
また、雑誌やライブで度々「グンゼを着ようぜ」と発言しているのも周知の話である。
絹織物は古代から造られていたようである。最古の蚕は中国・揚子江河口近くにある約1万年前からの積層遺跡で、6千年前の地層から出土した枝飾りに、描かれた蚕紋が確認されている。最古の繭は5千年前の遺跡から、蛹を食べた後の繭が出土している。その頃、蚕は食料でもあったようだ。現在この繭は台湾・台北にある故宮博物館に保管されている。
最古の絹織物としては揚子江の南にある、5千年前の遺跡から出土した平絹織物である。
金蚕や蚕の玉、繭形の壺の副葬品として出土されており、蚕は神聖なものだったようだ。
日本では弥生時代前期の遺跡から絹織物が出土している。「魏志倭人伝」によると、倭の国(卑弥呼)に蚕と桑があり、いろいろな絹織物が造られていると書かれている。三角神獣鏡を包んでいたのは絹の布であった。
蚕の数は家畜などと同じように何頭と数えるという。一頭の蚕は一生の間に約20gから25gの桑の葉を食べ、0.5gの絹糸を吐くという。蚕はわずか3度の傾斜角を感じると云われ、蚕は重力を感じて繭造りをしている。日本の繭でMKという品種は、全長3100mの絹糸が採れるという。絹の増産には蚕の繁殖が欠かせないが、蚕は精巧な感覚センサーを持っており、オスはメスの分子が数個あるだけで、メスを認識しているという。
グンゼは1987年に子会社のグンゼシルクを解散し、創業以来の蚕糸事業から完全撤退した。
グンゼは創立100周年にあたる1996年にグンゼ博物苑を設立。初期のメリヤス製品や靴下、絹製品などが展示されており、大正時代初期に建てられた旧郡是製糸繭蔵を使用した建物がある。広場には蚕を育てるには欠かせない植物である桑の木が、500品種2000本が植えられている。
グンゼ博物苑の前にはグンゼ記念館があり、1916年に新築されて本社事務所として使われた建家である。1階の蚕糸室では繰り糸機械の変遷など、蚕糸技術の歴史を紹介している。
教育室では創業者・波多野鶴吉の従業員教育、人造り体制の背景となった考えや経緯を紹介。2階の栄誉室では1917年の貞明皇后行啓時の御座所などが、そのまま展示保存されている。主展示室には波多野鶴吉の直筆の書や、1933年当時のグンゼの模型や、創業当初からの沿革等を展示。また、創業者室にはグンゼ設立・発展に貢献した人達の遺品などが保存されている。展示品の数々は何鹿郡発展のために製糸業を興し、これを中心に据えて養蚕を奨励することこそが、何鹿郡が急務とした事業であり、「郡是」であったことを物語っている。
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