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さいか屋は神奈川県・川崎市に本社を置く、東証2部上場の百貨店である。雑賀衆の末裔と云われる創業者・岡本伝兵衛が、1872年に横須賀で開業した。1950年11月に不動産賃貸業の大洋会館を設立。55年に川崎さいか屋に称号を変更。翌年には川崎市の現在地に地下一階、地上三階の店舗を完成させ、従業員約300名をもって百貨店を開業し、同時に本店も川崎に移した。川崎市唯一の百貨店として業容は順調に発展し、63年には横浜市鶴見区・矢向に配送センターを新築。翌年には資本金の増強を経て、東京証券所第二部に株式上場を果たし、本店も増築して拡大路線へ走る。69年には現社名のさいか屋に変更。70年代には茅ヶ崎店の新設。川崎店の増築、横須賀店の増築、藤沢店の増築など、神奈川県の地場百貨店として発展。76年には62年に開設した東京・町田店を、ショッピングビルに転換し、各種専門店をテナントとして導入。自営ショップと併せてファッションロード・町田ジョルナ店として運営する。80年代には川崎区・小川町に、本社事務館として小川町別館を新築。横須賀市・三春町には物流センターを新設。また、CI活動を導入し、53年以来使用していたシンボルマークを、さいか屋のイニシャルであるSに結実し、鳥が今まさに羽ばたこうとするイメージのシンボルマークにした。
90年代に入ると、横須賀店の隣接地にレストラン街、各種サービスや集会・文化ホールなどを中心としたコミュニテイー館としての南館を開店。これにより横須賀店は本館・新館・南館と3館体制で営業展開する。藤沢市の要請で出店していた藤沢市駅前の、丸井藤沢店地下一階の食料品専門店を、生鮮ディスカウントストアーにリニューアル。ザ・マーケット藤沢駅前店に店名を変更する。00年代になって、横須賀市の物流センターに、ドラッグストアーやパソコンショップ、カー用品や釣り具店、ゲームセンターなどの複合ショップをオープン。三春町ショッピングセンターとする。さらに矢向の配送センターを、さいか屋メディカルビルとして、医院・介護分野に進出し、事業領域の拡大を図る。厳冬の季節と云われる百貨店業界に在って、さいか屋も不慣れな異業種に進出したり、関連子会社のリストラを実行したり、事業戦略の見直しを重ねるが、その迷走ぶりが目立つようになってきた。過去には業容拡大のための増資が何度も行われてきたが、今年1月に行われた増資は、キャッシュフロー不足の資金増強だったようだ。
雑賀衆(さいかしゅう)は、戦国時代に紀伊国北西部の雑賀荘を中心とする一帯(現在の和歌山市の雑賀崎辺り)の、諸荘園に居住した国人・土豪・地侍たちが結合した集団。16世紀当時としては非常に多い、数千丁単位の鉄砲で武装しており、極めて高い軍事力を持った傭兵集団としても活躍した。我が国では1543年にポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が伝来したと伝えられている。古書によると根来衆の佐武伊賀守が、1549年に鉄砲を習い始めるとの記述があり、この以前から根来衆には鉄砲が在ったと思われる。この根来衆から雑賀衆に、鉄砲が持ち込まれたと考えられている。根来衆は根来寺を中心とした真言宗僧徒らの、集団を指す場合が一般的となっている。根来寺の僧は教学や儀式を司る学侶と、堂塔の管理や寺の防衛を司る行人がおり、根来衆の大半は行人で占められていた。行人とは兵僧でもあり、根来衆は兵僧集団と考えられている。一方の雑賀衆は鈴木重秀や土橋守重らが、石山御坊に籠城したことから、浄土真宗門徒と考えられている。雑賀衆には行人や兵僧と云われる人達は居なかったと云われる。雑賀衆は現在の和歌山市と海南市の、一部に多くいた土豪達の集まりで、地域と密着した集団だと考えられている。似ている点としては、共に優秀な鉄砲集団であり、契約により戦に参加して、報酬を得る傭兵集団であったことで知られる。根来衆と雑賀衆の拠点は、地理的にも近く、人的な交流は盛んだったようである。1565年に将軍・足利義輝は、雑賀衆を傭兵部隊とした三好義継らに討たれる。1568年に織田信長は足利義昭を奉じて入京し、義昭の要請に応じた畠山昭高が、根来衆・雑賀衆らを援軍として送り出し信長軍についた。古書によると大規模な銃撃戦、攻城戦が繰りひろげられたが、傭兵された雑賀衆同志が戦ったと考えられている。しかし、石山本願寺が野田城・福島城の戦いに参戦すると、雑賀衆は一致して石山本願寺側につき、信長と戦ったと云われる。この石山合戦では鉄砲を効果的に活用したとされる信長も、雑賀衆の鉄砲の技術と量には苦戦したとされ、信長自身も負傷する大敗を喫した。信長は本願寺を倒すために、雑賀衆を抑えこむ戦いを仕掛ける。1577年に信長自身が率いる大軍をもって、和泉国と河内国から紀伊国に侵攻した。この第一次紀州征伐では、雑賀衆に服属を誓わせた。だが、この戦いで信長軍は大きな損害を出したと云われ、服属させたはずの雑賀衆は、すぐに自由な活動を再開して本願寺側に加担。その後、1580年に本願寺から門主である顕如が退去することで石山合戦が終結。しかし、顕如を迎え入れた雑賀衆と、信長に従おうとする雑賀衆にわかれ、雑賀衆は分裂することになる。1582年に本能寺の変で信長が討たれ、豊臣秀吉が政権の座に就いた。秀吉の中央集権を進めて、土豪の在地支配を解体しようとする政策に、根来衆と雑賀衆は一貫して反発。根来衆と組んだ小牧・長久手の戦いでは、大阪周辺まで出兵して秀吉を脅かした。しかし、徳川家康と手を組んだ秀吉は、第二次紀州征伐に乗り出し、根来寺を焼き討ちにする。雑賀に対しても攻撃を加え、抵抗した雑賀衆も壊滅してしまった。その後の雑賀衆は滅びた土豪勢力として帰農したり、各地の大名に抱えられて鉄砲の技術を伝承したりした。なかには各地に散らばったまま音信が途絶えたりして、やがて雑賀衆は歴史から消えていった。
8月4日、日本繊維新聞は川崎市のさいか屋が、ADR手続きを申請したと伝えた。報道によると、事業再生ADR手続きの申請を、事業再生実務家協会に行い、受理されたと発表した。同社はこれまで第三者割り当てによる資金調達や、クレジット事業の外部委託化、連結子会社の合併などの経営改善策を実施してきたが、経営環境は依然厳しく、抜本的な改善を図るためには、事業再生ADR手続きが必要と判断した。同社の事業再生計画案によると、現在の代表取締役社長・岡本康英氏は、事業再生ADRの成立を待って取締役を辞任する。人員削減を進め、従業員のパート化を図ることで人件費を抑制するという。事業再生ADR手続きとは、訴訟によらず中立的立場の専門家を介して行われる私的な債務整理方法である。今後も百貨店の運営は継続するとしている。川崎市では地場の百貨店として、多くの市民に親しまれ、川崎市民にとってはランドマーク的存在であった。店舗の土地建物は川崎鶴見臨港バスが所有。主要株主は雑賀屋不動産、横浜銀行、スルガ銀行、京浜急行電鉄、三越、清水建設など。直近の売上高は、07年2月期が73.519百万円、08年2月期が71.148百万円、09年2月期が67.176百万円と苦戦が続いていた。
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