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民放ラジオが開局された昭和26年。今では誰もが心に残っているCMソングが、そのラジオから流れた。三木鶏郎が作詞・作曲した「♪〜牛乳石鹸 よい石鹸」の唄である。その2年前、牛のマークが描かれた赤い箱に入った石鹸が売り出されていた。当時は戦後の混乱が癒えず、あらゆる物資が不足していた。石鹸も極端に品不足状態で、闇市ではとんでもない粗悪品まで飛ぶように売れていた時代だった。日本の石鹸製造は1869年からと云われている。海外の技術を参考にしながら、全国各地に石鹸工場が造られるようになり、10年後には輸出産業になるまで発展していく。なかでも大阪には多くの石鹸工場が作られ、石鹸産業の中心地となっていった。1909年に宮崎奈良次郎が大阪市東区清水谷(現・天王寺区)に共進社石鹸製造所を立ち上げ、石鹸製造を開始。これが牛乳石鹸の始まりだった。小さな町工場としてのスタートだったが、奈良次郎の経営手腕により順調に業容を拡大し、大阪の有力石鹸メーカーとして成長していく。当時の石鹸業界は問屋の力が強かった時代で、問屋の商標で請負生産をしていた。奈良次郎の会社でも50店以上の問屋の石鹸を、それぞれの商標で生産していた。その中の一つであった牛乳石鹸は、もともと小林富治郎商店(現・ライオン)の商品であった。この商標が佐藤貞治郎商店に渡り、共進社石鹸製造所は佐藤貞治郎商店からの請負生産をしていた。共進社石鹸製造所は1928年に佐藤貞治郎商店から、「牛乳石鹸」の商標を譲り受け、念願の自社ブランドによる製造販売をするようになる。1931年には個人経営から共進社石鹸株式会社とし、企業体としての体制を整えた。
日本は1941年にアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦に突入。経済統制が強化され、政治経済の全てが戦争遂行のために費やされるようになった。石鹸業界も全国に450社余りあったのが、40数社にまで激減。戦況が不利になるにつけ原材料の入手は困難を極め、労働力も軍需産業が優先され、絶望的な状況に陥った。1945年には大阪も激しい空襲を受け、共進社石鹸製造所でも工場が全焼。会社は為す術もなく一時休業に至った。やがて、敗戦という苦渋のなか、社員一丸となって工場再建に取り組む。荒んだ世相の中で、採算を度外視しても良心的な石鹸を造ろうと、焼け残った香料までも配合して化粧石鹸を造った。当時の資料によれば「戦後の混乱した世相の中で、当社が何をすればよいかを考えると、やはりよい品、よい石鹸を造ること以外になかった。何の娯楽も無い市民の方々に、ささやかであっても、プーンと花の香りがただよう石鹸をお届けしたら、どんなによろこんでもらえるだろうと、ただそのことだけを願った」と記述されている。石鹸が配給されていた時代に示したこのような誠意は、一般消費者のみならず業界関係者からも、大きな信頼を得ることとなった。その後、赤箱・青箱・白箱のみの牛乳石鹸に限定し、単一大量生産によって事業を拡大していく。牛乳石鹸は民間ラジオ放送が始まると、全国の茶の間に楽しい番組提供を始めた。最初の番組は「歌謡50年史」だった。牛の鳴き声で始まる番組は、歌謡曲の黄金時代でもあったため、常に高聴取率を誇り、全国津々浦々に牛乳石鹸の名を広めていった。テレビ放送が始まると、早くからテレビでの宣伝にも取り組んだ。牛乳石鹸はテレビCMを通じても、知名度を広げていった。1956年の「歌う千一夜」に始まって、「蝶々雄二のシャボン玉劇場」「モウモウ湯繁盛記」「小さな目」「シャボン玉寄席」などの番組を提供。1961年に放送開始された「シャボン玉ホリデー」は、民放初のカラーミュージカル番組として大ヒットとなり、11年もの長きに亘り人気を保ち、牛乳石鹸の代名詞的番組となった。
シャボン玉ホリデーは、1961年6月から1972年10月まで、日本テレビ放送網で毎週日曜日の午後6時30分から7時に、牛乳石鹸の提供で放送された。放送開始前、提供スポンサー探しに苦労したというエピソードがあり、最終的に決まった牛乳石鹸は渋々契約したと云われている。しかし、高視聴率だったことから、結果的には大成功であった。製作は日本テレビと渡辺プロダクション(当時)であった。渡辺プロが売り出し中の双子の女性デュオ、ザ・ピーナッツを主役に据えた音楽バラエティーショーとして企画。当初は「ピーナッツ・ホリデー」として放送する予定だったが、牛乳石鹸側の意向もあり「シャボン玉ホリデー」に変更になった。ザ・ピーナッツとハナ肇とクレージーキャッツをメインに、渡辺プロ所属のタレントや毎回登場する多彩なゲストを交えて、コントや歌、トークなどを展開。作・構成は青島幸男、前田武彦、塚田茂、はかま満緒、景山民夫など、当時の売れっ子脚本家達が担当した。第一回からカラー放送で、生放送ではなく、カラーVTRに収録して放送された。出演者のスケジュールの都合で、深夜に撮影されることが多く、時には明け方まで掛かることもあったという。当時、渡辺プロのテレビに出演するタレントや、歌手達に対する影響力は大きなものがあり、毎回旬のスター達を出演させて稚拙なコントをやらせて、笑いを取ったりしていた。楽屋で待機していた植木等を、付き人の小松政夫が出番を間違えて呼びに行き、場違いな場面に出てきた植木等が咄嗟のギャグで「お呼びでない・・これまた失礼いたしました」と発したフレーズは伝説ともなっており、その後は意図的に演じることもあった。ザ・ドリフターズも度々出演しており、後に爆発的視聴率を誇った「8時だよ全員集合」の構成を企画する際にも参考にしていたという。エンディングはザ・ピーナッツが歌うスターダストで迎えるが、曲の後半には必ずハナ肇が余計なちょっかいを出し、二人に肘鉄を喰うというものだった。番組が10年を過ぎた頃には、クレージーのメンバーが芸域を広げ、個別の活動が多くなって全員が揃わなかった。終わりの半年間くらいは公開番組となり、井上順がメインをつとめていた。番組は毎週日曜日の夕食時間帯に、牛乳石鹸の一社独占提供だった。牛の鳴き声でオチとなるコントや、オープニングのテーマソングをシャボン玉が舞う中で歌うなど、子供から大人まで、全国的な知名度を決定的にした番組でもあった。
1947年にブランド名を冠した「牛乳石鹸共進社株式会社」に社名変更。その翌年に日本はアメリカに次いで、初めてGNPが世界第2位の経済規模を持つようになった。しかし高度成長に乗って国民所得が倍増したとしても、国民一人当たりの石鹸消費量が倍増するわけでもなく、新たな事業戦略の構築を模索しなければならなかった。そんな矢先の1973年に起こった第一次オイルショックは、日本経済を大混乱に陥れた。石鹸・洗剤や化粧品業界においても需要は急減し、その対応に迫られることになる。先進国では石油消費の抑制と、エネルギー源の多様化を図り、コスト削減が徹底された。牛乳石鹸でも品質第一主義のさらなる追求と、消費者とのより密接な立場から、ニーズを先取りした多様な商品開発に全力を注ぐことになる。1976年には「石鹸は控えめな香りという従来の常識を越えて、香りそのものを楽しんで貰える時代が来れば、化粧品の魅力は倍加する」として、フレグランス・ライフを提唱。翌年には「シャワラン」シリーズのシャンプーとリンスを発売。時代に即応した商品として大反響を呼んだ。また、当時テレビを席捲していた人気タレント、ピンクレディーを起用したコマーシャルは、フレッシュな製品イメージにマッチし、シャワランの知名度を絶大なものにした。こうして爆発的な人気を得たシャワランは、当時の牛乳石鹸を象徴するものとなり、激動する業界での地位を確固たるものにした。社名にある共進社とは、共に進み行くという企業姿勢や社員の心構えが盛り込まれている。ブランドマークの牛も、古くからの格言である「商いは牛の歩みの如く」のように、前に進んでも後ろに退くな、粘り強く前進せよとの意味である。粘り強い堅実経営のもと、誰からも愛される製品を供給しようという企業理念を表している。今年で創業100年。牛乳石鹸は牛の歩みのように、堅実に石鹸やシャンプーなど浴室製品一筋に歩んでいる。
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