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1929年に鈴木忍は静岡で「南光科学研究所」を創業した。現在の「ポーラ」である。全国各地で約4500店、約10万人のポーラレディが訪問販売する化粧品は、業界トップの地位を占めている。創業時より各家庭に訪問して、化粧品を販売する手法を考えていた鈴木は、化粧品のブランド名を思案していた。親しみやすく、商品イメージにも合う名前を考えては、実際に声を出して「○○化粧品からお伺い致しました」と、セールス口調で言って見たという。ようやく2年後の1931年になって、幾百かの候補になったブランド名の中から、「ポーラ」という名前に巡り会った。前年に発表されたフランス映画「巴里の屋根の下」が、この年になって日本で公開された。パリの裏町を舞台にした青春映画で、感傷的な恋の物語は日本でも大ヒット。ヒロインとなったルーマニア娘の名前がポーラだった。そして役を演じた女優の名前もポーラ・イルリーだった。本人も役柄も可憐で清潔な印象のポーラは、日本の若者の心を虜にして、一躍スクリーンの恋人として大人気となった。鈴木はポーラとしたブランド名の由来を、誰にも明かさなかったという。このことを後年尋ねられた鈴木は「美の女神」だと語ったという。ギリシャ神話やローマ神話には、ポーラという女神は存在せず、鈴木にとっては映画のヒロインであるポーラと、それを演じたポーラ・イルリーが女神のような存在であったのであろう。鈴木は1954年に没するが、その後の同社の社史には「美の象徴として自分の“女神”を創造したのだろう」と記されている。きっと鈴木は映画のヒロイン名をブランド名にしたなどと、照れくさくて言えなかったのだろう。しかし、ポーラの名には化粧品会社としての、別な意味合いも込められていた。化粧品が追求すべき美の極みの「極み」の英語 pole や、これの形容詞である polar の音に文字を当てたのが「POLA」であった。1940年、このブランド名を冠して「ポーラ化成工業株式会社」として法人化。1946年にはポーラ化成工業から、化粧品事業を分離独立させ「ポーラ化粧品本舗」を設立。さらに2007年に子会社だったポーラ販売を統合し、「ポーラ」と社名変更され、今年は創業80週年を迎えている。
化粧品の訪問販売事業で飛躍的な発展を遂げたポーラは、1960年に東京・銀座に進出。翌年には横浜工場を建設して量産体制を確立させる。1971年には東京・品川区に「ポーラ五反田ビル」を完成させ、本社事務所を移転させた。1977年には静岡県の袋井工場を完成させ、生産体制を拡充。1979年には創業50周年を迎えたが、この間に香港・アメリカ・タイなどへ進出し、海外展開も本格化させていった。1985年には通販部門としてオルビス株式会社を設立し、通販化粧品の分野でも大きく業績を伸ばしている。その後の2006年にはテレビ通販の事業にも進出している。1989年には女性の肌を追求したオーダーメード化粧品シリーズ「アペックス・アイ」の全国展開を開始。そしてこの年、訪問販売に加えて百貨店事業を開始。全国主要都市にある有名百貨店のポーラ・コーナーは、現在約30コーナーを数える。1993年にはコンビニやスーパーで販売される基礎化粧品や、トイレタリー商品を扱う子会社「ポーラデイリーコスメ」を設立している。
トーキーとは映像と音声が同期している映画のことで、Talkie とはtalking picture から出来た造語である。Moving pictureをmovie と呼んだのに倣ったと云われる。サイレント映画(無声映画)に対してトーキー映画と云われるが、対義語として正確には発声映画と呼ばれた。世界初のトーキーは1927年のアメリカ映画「ジャズ・シンガー」であった。日本映画では1931年の田中絹代が主演した「マダムと女房」だった。初のトーキーに出演した田中絹代は、下関訛りの甘ったるい声が好評で、庶民的な可憐さと相俟って人気が沸騰したと云われる。同時期の人気スターだった入江たか子はトーキーに出演後、華族的な話し方が庶民の反発を招き、やがて人気低下に繋がったと云われる。その当時、海の向こうのフランスでは、監督として最も注目されていたルネ・クレールが初めて発声映画に取り組んだ。自ら原作・脚本を書き、監督した映画「巴里の屋根の下」が1930年に公開された。『パリの場末に二人の若者が住んでいた。アルベールは歌を唄って歌譜を売り、ルイは露天商をして生活していた。二人は何時も連れ立っていて、ルーマニア娘のポーラと出会ったときも二人は一緒だった。二人は憧れのポーラに挨拶をするときは、どちらが挨拶をするかを、サイコロで決める約束をするほどだった。ある時、不良の親分フレッドが、ポーラをカフェに誘っていた。アルベールはポーラに恋心を抱いていたが、フレッドが現れたので身を引いてしまった。ポーラはフレッドの荒々しさに心を惹かれ、ダンスに行くことになった。それを見ていたアルベールとルイは落胆してしまう。ところが、フレッドはポーラの手提げ袋から部屋の鍵を奪い、彼女に無理やりキスをしようとした。彼女は怒ってフレッドの頬を平手で打ち、ダンスホールを飛び出してしまう。アルベールはルイと別れて帰る途中、偶然にも彼女と出会う。カギを取られて困っている彼女を自分の宿に誘い、二人はベッドを挟んだ両側の床で別々に休んだ。ポーラはアルベールの優しさにほだされ、結婚の約束をしてしまう。嬉しさで有頂天になったアルベールだったが、知り合いから預かっていたカバンに、盗品が入っていたため、窃盗の嫌疑で投獄されてしまう。アルベールが入牢していた間、ポーラは精一杯慰めてくれるルイを、愛おしく感じるようになっていた。アルベールは無罪放免された日に、ポーラに去られた寂しさで酒を飲み、ポーラを別れのダンスに誘った。ダンスホールではフレッドが憎悪に満ちた目で、二人の踊りを見る。そして、場末の片隅で決闘が始まった。多勢に無勢でアルベールが危ないところを、ポーラは自分の心変わりを恥じながら、必死の思いでルイに知らせた。駆けつけたルイは、機転の発砲でアルベールを救い、騒ぎを聞いて駆けつけた警官は、ブレッド一味を一網打尽にする。騒ぎも落ち着き無事を喜び合った3人だったが、アルベールはポーラとルイが愛し合っているのを知る。今度は愛するポーラと親友のために、我が身を引く決心をして、二人を祝福した。翌日、歌譜を売るアルベールは、妙に寂しそうに見えるのだった。』
ポーラでは文化・芸術や環境の分野にも積極的な支援をしており、1976年設立のポーラ文化研究所や、1979年設立の財団法人・ポーラ伝統文化振興財団、1996年設立の財団法人・ポーラ美術振興財団によって、若手美術家や美術館学芸員、美術に関する国際交流等で活躍する人達に、助成活動など幅広く貢献をしている。2002年には箱根・仙石原にポーラ美術館、東京・銀座にポーラミュージアム・アネックスをオープン。箱根館では世界的な印象派コレクションを中心とする美術品と、古今東西の化粧道具を展示公開している。2000年に袋井工場がISO14001を取得し、2004年に緑化優良工場として内閣総理大臣賞を受賞するなど、環境分野にも強い関心を示している。1992年に横浜中央研究所、1995年に健康科学研究所を設立し、その成果として2年毎に行われる国際化粧品技術者会連盟において、1994年のベニス大会で最優秀賞、1996年のシドニー大会で優秀賞、1998年のカンヌ大会で最優秀賞と3回連続の受賞。2008年のバルセロナ大会でも最優秀賞を受賞するなど、高い技術力が国際的に評価されている。全国にいるポーラレディ達の、フレンドリーで真摯な接客対応が、比較的高い所得層の固定客を獲得しており、彼女たちの営業手腕が高業績の大きな原動力となっている。
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