ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 282

☆ 学生が起業した情報会社 ☆

2009.12.09号  

 堺屋太一は「凄い時代」(講談社刊)のなかで、20世紀の近代工業社会から、21世紀は知価社会になると説いている。つまり、物の時代から知識や知恵が価値を持つような時代に代わっていくと云う。そのような社会で欠くことができないのが心の健康である。言い換えるならば、物の時代に対して、心の時代と言っても良いであろう。物の時代では生命維持のため、電気、ガス、水道といった生命維持のインフラが整備され、生産活動は合理化や効率化が追い求められた。一方、生身の人間は生産性を追求した反動で、非効率な物を求めて心のバランスをとるようになる。それは非生産的なもので、遊びとか芸術とかの、心の潤いになるのであろう。因って、心の時代に必要とされるインフラは、心の豊かさをサポートするものが必要となってくる。今から35年前に、そんな時代感を先読みした映画好きの青年がいた。故郷の福島県から東京の大学に入った。サークル活動では映画研究会にも入ったが、当時は学生運動の末期で、大学はロックアウトされて授業やサークル活動もろくになく、生活のためにアルバイトに精を出していた。しかし、生活費は何とか稼いでも、大好きな映画を観るのはままならなかった。新作封切りのロードショーは高く、安く観られる二番館や三番館を探して通っていた。その頃は上映館や上映スケジュールを網羅した情報などは無い時代で、観たい映画を見逃してしまうことも度々であった。東京中の映画館の情報を、ひとまとめに見られるメディアが有ったら、どんなに便利だろうと考えていた。大学3年生の時、TBSのテレビニュース部で20人くらいの学生仲間に混じってアルバイトをしていた。仕事が済むと居酒屋で就職が話題になる中、「このまま就職するのではなく、冗談の通じ合う仲間同士で、社会とのつながりが持てて、共通の経済基盤が作れないだろうか」と議論していた。そして、その青年は予てより温めていたアイデアを披露する。映画や演劇、コンサートなどの興業情報誌で、「何所で、何がある」という情報だけを掲載する、今までに無かったタイプの雑誌だった。話がまとまると早速自分の下宿に電話を引き、編集事務所に解放。数人の仲間達と毎日徹夜でサンプル誌創りに没頭した。それを友人達に見せたところ「こんな雑誌が有れば買いたい」「100円なら買ってもいいよ」と反応は期待していた通りだった。

 その青年、矢内廣は創刊準備を続けていたある朝、玄関をノックする音で目が覚めた。ドアを開くと父が立っていた。何人もの若い者が雑魚寝、食べた丼はそのまま、タバコの吸い殻は山盛り。一人暮らしをしていると思っていた父は、驚くどころではなかった。仲間に気兼ねした矢内は、父を喫茶店に連れ出し「雑誌を創ろうと思っている」と告げた。父は「海外研修の手紙が届いた。お前には大学時代に何もしてやれなかったから」と言って28万円のお金を持参していた。その手紙は大学からのものではなく、旅行会社の卒業旅行の営業DMだった。やむなく父は、そのお金を創刊誌の費用に充てることを承諾。雑誌を印刷するにも、信用のない学生では前金が必要だった。そして、雑誌を本屋に流通させるため、取次会社の扉を叩いたが、門前払いにされてしまう。そんな頃、元紀伊国屋書店社長・田辺茂一のインタビュー記事を読み、早速行動に移した。記事にあった電話番号を廻し、偶然にも幾つかの幸運が重なり社長と面談することができた。田辺はその場で、日本キリスト教書出版販売の中村義治(後の教文館社長)を紹介してくれた。そして中村は自らの署名と実印を押して、約100軒の書店へ紹介状を書いてくれた。創刊号は1万部とした。雑誌「ぴあ」の誕生である。しかし、実際に売れたのは2000部だったが、1軒あたり20部売れた計算になる。逆に意を強くした矢内は、残った部数をリックに詰め込んで、PRを兼ねて電車の網棚に置いて廻ったという。1972年のことだった。


 今月1日の新聞報道によると、セブン&アイ・ホールディングスは、チケット販売最大手の「ぴあ」と資本・業務提携すると発表した。セブン&アイ・ホールディングス、セブンイレブン・ジャパン、セブン&アイ・ネットメディアのセブングループ3社で、「ぴあ」に20%を出資。来秋にも傘下のセブンイレブン・ジャパンや、イトーヨーカ堂などの約1万4千店舗で「ぴあ」のチケット販売を始める。セブングループ3社は「ぴあ」が18日に実施する第三者割当増資を約30億円で引き受け、セブン&アイ・ホールディングスの持ち分法適用会社とし、矢内社長に次ぐ第2位株主となる。来秋にも始めるサービスは、「ぴあ」のサイトで予約したチケットを、セブンイレブンなどの店舗で受け取れるようにする。両社のポイントサービスの共通化も検討課題となっている。セブンイレブン・ジャパンと「ぴあ」は2001年11月から2006年4月まで、業務提携契約を結び、国内に於ける興業チケットの販売について協業していた。しかし、オープンプラットフォーム化を進めるセブン側と、「ぴあ」側のエンタテイメントチケット商材の特殊性に対する考え方が、将来の事業展開において一致せず、業務提携を解消した経緯がある。今回の資本・業務提携の背景には、セブンイレブン・ジャパンの親会社であるセブン&アイ・ホールディングスが、主力の物販が低迷しており、成長が有望なチケット事業の拡大を目指し、業界最大手の「ぴあ」を加えて収益の柱に育てたい意向があること。一方の「ぴあ」も近年の業績が低迷していることがある。

 矢内廣は1950年1月7日にいわき市で生まれた。1969年に中央大学・法学部入学。在学中の1972年にアルバイト仲間と、月刊情報誌「ぴあ」を創刊。大学を卒業した翌年に「ぴあ株式会社」を設立し、代表取締役に就任。「ぴあ」はベンチャー・ビジネスという言葉が無かった時代に創刊した。故に矢内は学生起業家のパイオニアとしても広く知られる。創業当初は取次会社を通さない、書店への直販体制であったが、取扱書店が増えると、それの正比例以上に販売部数が伸び、「ぴあ」の商品力に確信を持つようになった。直販流通書店数が約1600軒となり、実売部数も10万部を超えるようになった創業4年目頃、他の書店が取次会社に「ぴあを取扱いたい」との要望が急増。取次会社を通す決断をする。直販流通から解放され、余裕ができたことから、新人映画監督の発掘と育成を目指した「第一回自主製作映画展」(現在・ぴあフィルムフェスティバルPFF)を開催する。大学の映画研究会は3年になると映画を作ることができたが、「ぴあ」立ち上げと重なったため断念した経緯があった。自分の夢だった映画製作を後輩達に託したい思いもあったようだ。PFFスカラシップ作品「パークアンドラブホテル」の熊坂出監督が、昨年のベルリン国際映画祭で最優秀新人作品賞。昨年のPFFアワードでグランプリ獲得の「剥き出しにっぽん」を監督した石井裕也が、アジア最高の映画を決める「アジア・フィルム・アワード」で、第一回エドワード・ヤン記念・アジア新人監督賞。PFFスカラシップ作品「14歳」を監督した廣末哲万が、平成19年芸術選奨文部科学大臣新人賞。「東京タワー オカンとボクと時々オトン」の松岡錠司監督が、昨年の日本アカデミー賞で最優秀監督賞。その前年には「フラガール」の李相日も最優秀監督賞を受賞しており、全員がPFF出身である。現代日本映画を代表する「AERA MOVIE ニッポンの映画監督」で紹介された監督84人中28人がPFF出身者である。矢内がPFFを長年続けてきた最高のご褒美となった。「ぴあ」も創業当初は映画や演劇、コンサート情報をまとめた出版業であった。1984年「チケットぴあ」がスタート。1998年の長野オリンピックでは、オフィシャルサプライヤーとしてチケット販売を担当し、冬季五輪史上最高の入場券販売率を記録(当時)。近年はオンラインでチケット販売をおこなうなど、情報サービス業の側面が強くなっている。矢内が創業当初に思い描いた心の時代には、人々は毎日の暮らしが生き生きとした感動的なものでなければいけない。これを矢内は「感動のライフライン」と名付けた。レジャーやエンタテイメントを楽しむ為に必要となる情報やサービス、即ち感動のライフラインを構築し、広く提供することが使命だと考えている。現在は資本金44億7538万5千円、連結売上高1003億3542万3千円(2009年3月期)。東証一部上場の情報サービス企業に成長した。


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