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1962年、英国のヒューム副首相が来日し、政府主催のパーティーで「かつて、日本の青年が一本の万年筆とノートで、ウィスキー造りの秘密などを盗んでいった」と語った。この青年が「日本のウィスキーの父」と呼ばれるニッカの創業者・竹鶴政孝である。竹鶴は1984年に広島県・竹原町の造り酒屋に生まれた。竹鶴には二人の兄がいたが、家業とは別な道を歩んでいた。竹鶴は家業を継ぐべく大阪高等工業学校醸造科に進んだが、日本酒ではなく洋酒に興味を持ち始め、卒業を待たずに当時の日本洋酒業界の雄である摂津酒造へ押し掛け入社した。ウィスキー造りへの情熱は寝食を忘れて働き続け、その甲斐あって入社間もなく主任に抜擢される。当時、摂津酒造で造っていた寿屋(現・サントリー)の赤玉ポートワインを担当した年、各地で葡萄酒の瓶が破裂する事故が相次いだ。殺菌が不十分だったため、生き残った酵母が暑さで発酵したのが原因だった。しかし、赤玉ポートワインだけは破裂しなかった。この時に寿屋の鳥井社長が、優秀な技師・竹鶴の名を記憶に刻んでいた。本物のウィスキーを造る必要性を感じていた摂津酒造の阿部社長は、竹鶴の情熱と資質を見込んで、スコットランドへの留学を薦める。しかし、家業の跡継ぎと決め、学校で醸造を学ばせた両親の落胆はただごとではなかった。阿部社長共々両親を説得し、竹鶴は1918年に英国グラスゴー大学へ留学。当時は第一次世界大戦の最中で、遠い異国への渡航は命がけであった。応用化学を学び3年後に本格的ウィスキーの製造方法を習得して帰国したが、摂津酒造では洋酒製造の計画が立ち消えとなっていた。阿部社長に多大な恩義を感じながらも退社を決意。それから1年、竹鶴は中学校の教師をして過ごした。丁度その頃、寿屋では赤玉ポートワインが好調な売れ行きで経営も軌道に乗り、本格的ウィスキーの製造に乗り出そうとしていた。鳥井社長は英国から技師を招こうとして、ロンドンに問い合わせた。するとウィスキーの権威ムーア博士から回答が届き「わざわざ英国から人を派遣する必要はない。日本にはミスター・タケツルという適任者がいる」との回答であった。竹鶴を思い出した鳥井社長は、迷わず自宅を訪ねた。1923年に寿屋に請われて10年契約で入社することになる。そして、日本初の本格的ウィスキー工場「山崎工場」建設の総指揮をとる。
竹鶴は寿屋入社後に葡萄酒や林檎酒の研究のため、英・仏国へ二度の視察渡航をする。やがて入社して10年の歳月が流れ、ウィスキー造りを軌道に乗せた。40歳になった竹鶴は、長年の夢であった自分のウィスキー造りを決意し、寿屋を退社することとなった。1934年、竹鶴は出資を募って「大日本果汁株式会社」を、スコットランドの風土に似た北海道余市で設立。筆頭株主で事実上のオーナーは加賀証券社長の加賀正太郎で、社内ではご主人様と呼ばれ、創業者の竹鶴は代表取締役専務で専務と呼ばれていた。ウィスキーは製造開始から出荷まで数年かかるため、その間の中継ぎとして余市周辺の特産品であった林檎を原料に、竹鶴が欧州で味わった本物の味、日本初の天然リンゴジュースを発売。しかし、当時の清涼飲料はラムネやサイダーが主流で、健康には良くても酸味が強く、添加物のない天然ジュースは、人々の嗜好に合わず返品の山となった。赤字は増える一方だったが、挫けることなくウィスキーの熟成に期待を寄せる日々が続いた。創業から6年を経た1940年、ついに待望の第一号ウィスキーが発売された。その時、社名の大日本果汁を短くして「日果(ニッカ)」と呼ぶことにした。「ニッカ」ブランドの誕生である。戦後間もない頃、原酒が0〜5%しか入っていないイミテーションウイスキーが飛ぶように売れていた。しかし、竹鶴はそのような物をウィスキーとは認めず、株主の要求で3級ウィスキーを発売するときも、規定いっぱいの5%まで原酒を入れた。だが、あくまでも質に拘ったため高くて売れなかった。困り果てた営業担当者が大事な得意先である問屋を宴席に招待した。ところが、竹鶴は次のように挨拶して出席者を驚かした。「我々の造っているウィスキーは他社のものとは違う。吟味に吟味を重ねて良い品質のものを提供しているのだ。これを売れないとおっしゃるなら止めて頂いて結構。これからも扱って頂けるのなら、何故わが社のものは容量が少なくて値段が高いのか、それを良く認識してもらいたい。我々が誇りを抱いて造っているように、みなさんも誇りを持って売って頂きたい」
英国のヒューム副首相のジョークを交えたスピーチに、もう一つの逸話が隠されていた。英国ではウィスキー造りともう一つ、英国女性を盗んだことが、50年近く経ても語り継がれていたのだ。竹鶴は留学中に、ある少年への柔道指南を頼まれた。依頼主のカウン家では、少年に3人の姉がいた。竹鶴と同じ大学に通う次女のエラとは、以前から顔見知りで親しかった。しかし、竹鶴が意識していたのは、つつましく控えめにしている長女リタことジェーシー・ロベルタ・カウンだった。リタも東洋のハンサムで凛々しい青年に恋心を抱いていた。竹鶴とリタは次第に親密になり、少年ライゼムに柔道を教えるのは、リタに逢いに行く口実のように思えるほどだった。ある年のクリスマス、竹鶴はカウン家のパーティーに招待された。パーティーのクライマックスはプディング占いだった。カウン家では毎年プディング・ケーキを用意し、この中に新しい6ペンス銀貨と、裁縫の指貫が埋め込んでいた。このプディング・ケーキを切り分けるとき、銀貨が入っていればお金持ちに、指貫を当てた女の子は良いお嫁さんになれるとされた。そして、男に銀貨、女の子に指貫が入っていれば、二人は将来結ばれるという占いだった。この日もカウン家は大きな歓声に包まれた。竹鶴に銀貨が、リタに指貫が当たったのだ。竹鶴はリタとの結婚を夢見るようになり、リタに自分の気持ちを打ち明けることにした。「あなたにその意志がなければ、はっきりとおっしゃって下さい。もしも、貴女が望まれるのなら私は日本に帰るのを断念して、この国に留まり職を探しても良いと考えています」。この言葉に対してリタの返した言葉は、竹鶴にとって生涯忘れることのできない言葉だった。「私たちはスコットランドに留まるべきではありません。日本へ向かうべきだと思います」。さらにリタは竹鶴の胸に深く刻まれる言葉を重ねた。「マサタカさんは大きな夢に生きてらっしゃる。その夢は日本で本当のウィスキーを造ること。私もその夢を共に生き、お手伝いをしたいのです」。竹鶴とリタは結婚を約束した。しかし、当時は現代と違い国際結婚に対する抵抗感も非常に強かった。二人は周囲の反対を押し切って結婚するが、教会での結婚式はできず、登記所での略式であった。二人の固い決意を知った双方の親族も、結婚を認めるようになった。竹鶴の卒業と共に二人は手を携えて帰国する。そして、この旅がハネムーンだった。リタはしっかりした女性だった。時間には厳格で、料理も日本女性が作る以上で、また細やかな気配りが行き届いていた。戦時中はイギリス生まれと云うだけで、制約を受けたことも多々あった。東京へ出るため函館まで行っても、内地まで渡れなかったり、部屋のラジオのアンテナから秘密の暗号を発信していないか、探知機で調べられたりもした。しかし、リタほど日本人になりきった外国人も少なかったようだ。リタが親族の遺産を受け取った際にも、これを資金に保育園を設立。現在も「リタ保育園」として園児達が通っている。そして何より、竹鶴のウィスキー造りへの情熱を陰で支え続けていた。竹鶴のウィスキー造りが軌道に乗るまでの不安な日々、戦時下での外国人に対する偏見などに耐え抜いたリタだったが、異境での厳しい生活に体力も奪われたのか、1961年1月7日永い眠りについた。竹鶴にとって辛く、悲しく、生涯で最も心を痛めた日であった。
1943年、竹鶴は社長に就任。1952年に同社は「ニッカウヰスキー」に社名変更し、本社を中央区日本橋に移転。港区麻布(現・六本木ヒルズ所在地)には瓶詰工場として東京工場を設置。2年後、病床にあった加賀は死期が近いことを知り、株式の散逸を防ぐため、他の主要株主と共に朝日麦酒(現・アサヒビール)に保有株式を売却。ニッカは朝日麦酒傘下となる。ご主人様と呼ばれたオーナーの突然の行動に騒然となったが、加賀は朝日麦酒社長が竹鶴の知人であったことから、敢えて朝日麦酒に売ったと云われる。朝日麦酒は役員一名派遣したが、製造には口を出さなかったという。2001年にアサヒビールが全株式を取得。完全子会社となる。晩年の竹鶴は黄綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章を授章。北海道開発功労賞なども受賞。札幌冬季五輪後に竹鶴シャンツェを笠谷シャンツェとして余市町に寄贈。余市町名誉町民。1979年、享年85歳で永眠。従四位に叙せられ銀杯を賜る。
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