ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 289

☆ 甘えっ子の発明☆

2010.02.03号  


 時は明治時代の中頃、場所は文京区小石川。そこに働き詰めの母に甘える男の子がいた。遊んで欲しくてまとわりつく男の子だが、忙しく働く母には、子供の相手をしている暇などなかった。何時も遊んでやれない我が子を、愛おしむ母は貧しい暮らしの中から、おやつに蒸した芋を用意していた。そして、お腹が満たされた男の子に、友達と遊んで来るように、優しく諭す毎日だった。こうして、男の子は何時も働く母親の後ろ姿を見て育った。やがて男の子は、何時かは貧しい暮らしから抜け出して、母親を楽にさせてあげたいと思うようになる。大きくなったら売れるものを何か発明して、お金持ちになりたい。そんなことを毎日思い続けていた。男の子の名は、「亀の子束子」の発明者・西尾正左衛門であった。大人になった正左衛門は、母が働く後ろ姿を見ながら思いついた。母が編んでいたシュロを針金で巻いて、靴拭きマットを創ることを考える。それまでの縄で編んだマットと違い、シュロで編んだマットは、ブラシのように靴の泥を削り取ってくれた。これが、ことのほか好評で、売れ行きに気分を良くした正左衛門は、念願であった特許を取って、大々的に売り出そうと特許庁へと向かった。しかし、特許庁では同様のマットが既に、英国で特許が取得済みであること、さらに正左衛門が考えたマットに使っているシュロでは、何回も使用したり、体重の重い人が乗ると、毛先がつぶれて効果がなくなると、欠点まで指摘される有り様だった。案の定、販売したマットが大量に返品されてきた。正左衛門は苦しい生活が続くなか、ことの後始末で忙しさに振り回されたが、新商品を発明する心だけは失わなかった。

 やがて正左衛門も大人になり、妻を迎えるようになる。そして待望の男の子(慶太郎・後の二代目社長)が生まれ、かつて母が自分に対し、目一杯の愛情を注いで呉れたように、正左衛門も我が子に愛情を注ぐ毎日だった。ある日、妻・やすが返品されたマットの、シュロがついた棒を一本取り出し、二つ折りにして障子の桟を掃除していた。これを見た正左衛門はシュロを編んだ棒を、洗浄用の道具にして売ることを思いついた。曲げて手に持って使うものならば、毛先が簡単につぶれることがない。昔から藁や縄を束ねて、洗う道具に使っていたことがある。シュロを針金で巻いて束ねたものを、洗浄の用途に使うのは初めてで、世間でも聞いたことがない。これを使うのは女性の方が多いだろうから、形や大きさ、重さなどを妻の手を参考に試行錯誤を続ける毎日が始まった。正左衛門が苦心の末に作り上げた新商品の、特許を申請するために特許庁へ向かおうとしたとき、この新商品に名前が付いていないことに気がついた。実用新案に登録するためにも、名前が必要であった。考えあぐねていると、息子がタライの中で泳いでいる亀を指して、声を掛けてきた。正左衛門は自分が創った新商品が、正に水に浮いているように見えた。亀は長寿で縁起も良く、形も似ていて水にも縁があり、亀の子ならより親しみも湧く。正左衛門は早速、漢学者に相談して「たわし」に「束子」という漢字を当てはめて貰った。そうして生まれたのが「亀の子束子」である。1907年(明治40年)、正左衛門が32歳の時であった。しかし、研究熱心だった正左衛門は、シュロよりもココナッツ椰子の繊維の方が、適度に固く水に長持ちすることが判り、その年のうちに現在と同じ製品を売り出す。椰子の実を6週間水につけて掻解機に掛けると繊維が分離する。これを水洗いすると剛毛が採れる。二つ折りにした針金に剛毛を挟んだものを、捻っていくと棒状の束子になる。これを適当な長さに切ってU字型に曲げて端を留めればできあがりだ。造ってしまえば至ってシンプルだが、発想は独創的であった。商いは「西尾正左衛門商店」として発売を始め、売値は当時の価格で3銭であった。翌年になり、実用新案が認められ「亀の子束子」「亀のマーク」の商標権を登録。1915年(大正4年)7月2日になって、特許として価値ありとのことで、御上より特許権を付与されることになり、世紀の発明品として認知される。そして後に、この日が「束子の日」と呼ばれるようになった。

 昔は器物を擦り洗うのに藁を束ねて使っていた。これを「キリワラ(切藁)」と云っていたようだ。落語の「江戸荒物」には、「左官屋さんがワラを束ねて端をザクッと切ったんで洗って・・・。大正くらいになって、亀の子だわしちゅうのが出てきて・・・」とある。現代でも昼食時に中華屋さんへ行って、カウンター越しに厨房を見ていると、鉄鍋を洗うのに束子やキリワラを使っているのを見ることがある。金タワシは鉄鍋キズがつくし、スポンジでは汚れ落ちが悪い。そして何より、せっかく鉄鍋に染み込んだ油分を適度に残しておかなければ、次の調理の時にコビリついてしまう。鉄肌との相性は絶妙なのだ。束子は強く洗うときには強く、軽く洗うときには軽くと、加減できるところが何の洗浄にも適している。ステンレスの流し台。風呂場のタイル目地。浴槽の掃除。障子の張り替えには、桟に残った糊の洗い流し。子供の運動靴等々、相手を選ばない便利な優れものなのだ。1919年(大正8年)の中央公論9月、10月号に掲載されている芥川龍之介の「妖婆」のなかに「荒物屋の前に来ると、浅草紙、亀の子束子、髪洗粉などを並べた上に、蚊やり線香と書いた赤提灯が・・・」と出てくる。この頃には、亀の子束子は何所の荒物屋でも売っていたくらい普及していたようである。商品が普及するには安価であることが絶対条件である。この短編が書かれた大正8年頃の、亀の子束子の価格は10銭であった。岩戸景気に沸いていた1960年頃は30円。1980年頃で180円。1990年には18年振りに値上げした。それでも250円だった。現在でも280円と、価格の優等生は抜群の競争力を誇る。安価な物の代名詞として使われ、高いコマーシャル効果を発揮しているのが、日曜日午後に全国放送されている「新婚さんいらっしゃい」のペアマッチコーナーである。パネルを開き2枚同じになると、そこに描かれている商品が貰えるゲームだ。出場者が安価な亀の子束子が当たり残念がったりすると、裏の該当商品が高額のハワイ旅行だったりする。

 藁やシュロを束ねて使っていた時代に、正左衛門が考えた亀の子束子は、たちまち全国津々浦々に普及していくようになった。特許侵害やまがい物の続出には目に余るものがあったが、正左衛門は特許の権利を主張せずに、地道な宣伝活動を続けブランドの浸透を図った。満州事変が起こった1931年当時、実用と普及の価値は特許制度開設以来、3番目の発明だったと称えられる。そして、満州・樺太・台湾・ハワイ・米国・南米諸国などへも輸出されるようになる。しかし、1940年になると戦争の影響が出始め、原料のココナッツ椰子繊維の輸入が不可能となり、再びシュロにて生産を続ける。東京オリンピックが中止された年である。翌年、日本も太平洋戦争に突入し、工場は軍事工場として徴用され、小工場を設置して事業縮小に至る。さらにその翌年、「有限会社西尾製作所」と社名変更し、経営体制の強化を図る。1945年になって、ようやく戦争は終わったものの、小工場は空襲にて焼失し、操業を一時中止せざるを得なかった。本工場は幸にも焼失を免れたたが、返還された本工場での生産を再開しようにも、資金と原材料の調達に苦難する日々が続いた。戦後の落ち着きを取り戻した1948年に、現社名の「株式会社亀の子束子西尾商店」に社名を変更。そして正左衛門は、会社の再建を見届けた1953年に78歳で他界した。現在は四代目・西尾松二郎が1991年に社長就任。全国の日用品雑貨卸問屋700社と取引、米国・カナダ・ヨーロッパ・オーストラリア・東南アジア諸国にも輸出。何所の家庭にも必ず一個はある亀の子束子は、誕生してから2007年で100年の歴史を数えた。


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