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世界最高峰の染め物技術である友禅染めは1685年頃、その技法を開発した扇絵師として名高い宮崎友禅齊に因んで名付けられた。それまでの「糊防染」という染色技術を応用して、斬新な図柄を表現。その頃は有田焼の祖・酒井田柿右衛門が活躍し、浮世絵が興隆し、様々な分野の文化が勃興した時代でもあった。友禅染は多色の絵模様を自由に染めることができる画期的な染色技法であり、最も魅力的なのは百花繚乱の如く描かれる絵模様の美しさと趣にあった。京友禅の老舗「千總」は、友禅染が開発される約130年前の、1555年(弘治元年)に西村与三右衛門によって、京都室町三条の地で創業された。藤原氏を祖とする西村家は元々奈良に住まい、毎年行われる春日大社の若宮おん祭りに、興福寺一条院が捧げる「千切花(ちきりか)」と呼ばれる供花を載せる台を造り、奉納している宮大工だった。この頃に「千切屋」という屋号を賜る。後に平安遷都に際し、都城造営を命ぜられて京都へ移る。やがて、妻の実家の家業だった法衣装束の織物業を始め、屋号は宮大工で賜った「千切屋」を使うことにした。千切屋の商いは大いに繁盛し、四代目・惣左衞門(以後、十一代まで当主は惣左衞門を襲名)の時代には金襴巻物や友禅を扱うようになり、今日の千總の礎を築いたとされる。1684年頃から1704年頃(貞享・元禄年間)にかけては、江戸では庶民文化が花開き、美麗を競う着物の需要が高まり、友禅染が大流行した。友禅小袖などの優秀な技術と、絵模様が称賛を得るようになり、その波に乗って千切屋も事業を拡大していった。
江戸時代後期になると図案が固定化してしまい、新鮮さを失うようになり、商いとしても低迷するようになった。その後の明治維新により東京へ遷都され、欧風化思想の普及も相俟って、京都の染め織物業界も沈滞してしまった。十二代目・總左衞門(以後、現在の十五代まで当主は總左衞門を襲名)の時代になって、それまで職人の仕事として見下げられていた友禅の下絵書きに、画壇の有名画家である岸竹堂や今尾景年らを起用。当時の常識を覆す大胆な発想は、芸術性の高い絵画的な作品を数多く発表するようになった。これにより、再び友禅染は活況を取り戻すことになる。染色デザインの領域に新しい分野を取り込んだ発想は、その後も縮緬地に合成染料を使用した友禅を成功させる。これが友禅染の量産化を可能にした。業界最古参の老舗で、超高級品ばかりと思われるが、庶民が買える手頃な価格帯の商品も、量産化により可能となった。千總の歴史は、革新の歴史だったとも言える。貿易商まで手掛けるなど、その時代、時代で様々な苦難も、革新的な技術を生み出して乗り越えてきた。現在では友禅の技術とデザインを着物だけでなく、スカーフや扇子、陶器といった物まで、様々な商品に広げる試みにも挑んでいる。京都本社一階にオープンしている新しいコンセプトの小売店「總屋」では、現代生活空間の景色に溶け込む着物の提案もしている。現社長は「伝統とは守るものではなく、創りだすもの」と定義する。最近話題となった新しい分野への挑戦では、2002年に公開された北野武監督作品「Dolls」であった。あでやかな色調と絢爛豪華さ、そして醸し出す雰囲気などで絶賛された。この映画に使われた衣裳は山本耀司(既号264.ブランドの危機)デザインで、衣裳制作に協力したのが千總だった。
Dollsは近松門左衛門の「冥土の飛脚」の出番を終えた忠兵衛と、梅川の文楽人形の視線で語る設定で、3組みのカップルの純愛と死を描いたドラマ。北野武が脚本・監督、編集作業にも加わった。第59回ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門出品。第26回日本アカデミー賞優秀撮影賞、優秀照明賞、優秀美術賞、優秀音楽賞受賞。第27回報知映画賞助演女優賞受賞。平成14年度文化庁映画芸術振興事業作品。『赤い紐で体と体を結んだ“つながり乞食”の佐和子(菅野美穂)と松本(西島秀俊)。かつて松本は佐和子の愛を裏切る形で結婚しようとしたが、そのショックで佐和子が入院。それを知った松本が佐和子を病院から連れ出し、あてどなく彷徨い続ける。ある日、友人達に結婚を公表したロッジへたどり着く。しかし、そのロッジを追い出された二人は、雪山で足を滑らせて崖から転落してしまう。』『老境で迫り来る死期を感じ取ったヤクザの親分(三橋達也)は、思い立って公園へ出掛ける。そこは若い頃に愛した良子(松原智恵子)と、毎週土曜日に逢瀬を重ねた思い出の場所だった。そこには今も親分を待ち続ける良子がいた。思いも掛けない再会に親分の心は浮き立つ。そして、親分は自らの正体を明かさずに、良子に逢いに行くようになった。だが親分は、ある日ヒットマンによって撃たれてしまう。』『交通事故で左目を失い、芸能界引退を余儀なくされたアイドルの春名(深田恭子)。彼女の元にデビュー当時から熱心なファンがいた。誰にも顔を見られたくないという春名の気持ちを慮るあまり、自らの視力をも奪った温井(武重勉)が訪ねてきた。久し振りに再会した春名は、温井のことを覚えていてくれた。幸せな気持ちが頂点に達した温井だったが、運命は束の間の時間しか与えてくれなかった。温井は交通事故で轢死してしまう。』
千切屋は元禄時代の頃から御所や宮家の御用や、門跡家の法衣などを手掛けていた。その後も1874年に青山御所、翌年には吹上御所の内部装飾のご用命を受ける。第二次世界大戦中も「技術保存資格者」として、友禅の製造販売を許可されていた。1958年には皇太子明仁親王(今上天皇)御成婚に際し、皇太子妃美智子様の調度品のご用命を受ける。また、気品を重んじる各宮家の、調度品も数多く受注している。近年では1993年の皇太子殿下御成婚に際しても、雅子妃殿下の調度品製作を拝命する。現社名の千總に改称したのは1937年。それまでの屋号である千切屋の「千」と、当主である總左衞門の「總」から千總とした。千總資料館では衣裳関連の美術品や資料が収蔵され、その一部は本社二階にある千總ギャラリーや、貸出先の美術館で展示されている。
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