ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 335

☆ 食とスポーツで心身の健康☆

2010.12.22号  

 紀元前7000年頃には豚が家畜として飼育されていた。狩猟社会から農耕社会が広がるようになり、人々は定住した生活をするようになる。やがて家畜も飼育するようになり、食用を目的とする豚が飼われるようになった。詳細な時期は定かではないが、その頃から保存食としてのハムが造られるようになる。古来の製法は現在よりも単純で、生ハムのように燻煙する物が多く、塩漬けや乾燥させた物、またはこれらの製法を合わせたものだった。古代中国には紀元前4800年頃には生ハムが存在したと云われ、紀元前3500年頃にはバビロニアやエジプトで生ハムが生まれたと云われる。中国では10世紀頃の宋の時代に、金華火腿(チンホウアフオトゥエイ)というハムが生まれ、当時名将と云われた宋澤将軍が、里帰りを終えて都に戻る途中に偶然思いついたものと伝えられている。豚の足を丸ごと1ヶ月ほど塩漬けにし、それを4〜6日間干したもので、蹄もついたままだったという。杭州金華の名産品として中国では人気があり、スープの出汁にすると最高の旨味を出すという。ヨーロッパでは12世紀頃になると、ほぼ全域でハムやソーセージが造られるようになった。晩秋になると飼っていた豚を屠殺し、一家総出でハムやソーセージ造りをする。肉の塊はそのままハムに加工し、細かい肉や内臓、血液を用いてソーセージを造るなど、蹄以外は捨てるところが無いくらい家畜の恵みを大切にしていた。できたハムやソーセージは、家族や近所の人達と酒を酌み交わしながら、分かち合って食べたと云われる。ヨーロッパの農家では年中行事の一つとして、行われていた光景だと云う。一方、日本における歴史は浅く、最初は幕末にオランダから長崎に持ち込まれた。松田雅典なる人が早くからハム製造に着手し、明治5年に明治天皇が巡幸した際に、自家製ハムを献上したと伝えられている。最も古い記録として残っているのは、明治5年に長崎の片岡伊右衛門が、米国のペンスニから製法を教わって、この年の11月にハム工場を建設している。その後は札幌や鎌倉で製造されるようになった。ハムは明治から昭和初期までは超高級品であった。大正10年頃の物価では、ハム一本の金額が米俵一俵に相当し、公務員の初任給の三分の一もしたという。一般家庭に普及したのは、太平洋戦争後(1945年)の頃からと云われている。

 日本ハムは大阪に本社を持ち、伊藤ハム、プリマハム、丸大ハムなどと並ぶ大手ハム・ソーセージメーカーで、業界首位である。創業者は香川県出身の大社義規で、太平洋戦争後の1942年に、徳島市で「徳島食肉加工場」として創業したが、戦災により焼失する。1948年に徳島市で事業を再開し、翌年に法人組織として設立。1951年になり「徳島ハム」に組織変更。その後1963年に「鳥清ハム」と合併して「日本ハム」と改称し、本社を大阪に移転。1968年に大阪市中央区の現在地に移転する。1973年にはそれまで業界ナンバーワンであったプリマハムから、業界トップの座に奪い取る。1984年には「チキンナゲット」を発売し、ロングセラー商品となる。翌年にも最大のヒット商品「シャウエッセン」を発売し、17年間トップブランドの座を守り続けた。この二つの商品は現在でも、同社の重要な基幹商品となっている。1993年には「鎌倉ハム富岡商会」の事業を継承。2003年には宝幸(旧宝幸水産)を傘下に収め、水産・乳製品事業を強化する。2005年にはイメージキャラクターの「ハムリンズ」が登場。業容は順調な拡大を見せたが、好事魔多しのごとく近年は不祥事でマスコミを賑わす事も度々であった。2002年に関連会社の牛肉偽装事件が発覚し、責任をとって創業者一族が経営の第一線から辞する事件があった。2006年には兵庫工場で水質汚濁防止法の排出基準を超えた排出で公害の発生。さらに、その排水分析記録の一部を改竄する偽装工作が判明。翌年には大阪国税局の税務調査で、所得税の申告漏れが判明。今年10月になって、昨年の歳暮商品と今年の中元商品で、担当者が出荷の遅れを防ぐために独断で、在庫の無い注文商品を別商品に詰め替えていたらしいことが判明。好調な業績と、創業社長が第一線から退いたことの気の緩みが不祥事の根底にあったようだ。

 日本ハムは1973年のオフに、プロ野球パ・リーグ日拓ホームフライヤーズを買収して「日本ハムファイターズ」として傘下に置く。後楽園球場を本拠地として、オーナーには大社義規、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任。翌年の最初のシーズンは張本勲が7度目の首位打者獲得。1976年は前年最下位の責任を取って中西監督が辞任し、大沢啓二が監督に就任。1980年は新人の木田勇が最多勝を獲得し、MVPを始め投手部門のタイトルを独占する活躍をしたが、最後の1勝が明暗を分け近鉄の優勝。翌年は広島から優勝請負人の江夏豊を獲得。江夏は当時存在した全12球団からセーブを達成。後期優勝しプレーオフで前期優勝のロッテを破り、東映時代から数えて通算2度目のリーグ優勝を果たす。1982年は後期優勝するもプレーオフで前期優勝の西武に敗れ2位。シーズン途中で骨折して復帰絶望と云われていた工藤幹夫が、プレーオフの第1・3戦に先発し「一世一代の大芝居」として話題になる。1987年には巨人と共に本拠地を東京ドームに移す。東京ドームに移ってからは、「カップルシート」や「ビアシート」、近藤貞夫の発案と云われる「キスしたら無料」「仮装で来たら無料」などのアイデアで観客動員を図る。1993年には大沢監督が復帰したが、リーグ2位。翌年はリーグ最下位に沈み、最終戦終了後に大沢監督が東京ドームのマウンド上で、土下座してファンに謝罪。東京ドームでは2003年までの16年間で、一度もリーグ優勝は果たせなかった。オフには攻守の中心選手として、人気も兼ね備えた新庄剛を獲得。2004年になり本拠地を札幌ドームに移し、球団名も「北海道日本ハムファイターズ」とした。オフのドラフト会議ではダルビッシュ有を獲得した。2005年には球団の初代オーナー大社義規が死去。背番号100はオーナーとしてプロ野球史上初の永久欠番となる。2006年はシーズン前に新庄が、今期限りの引退宣言。チームは25年ぶりのリーグ優勝をはたし、日本シリーズも中日を制し、44年ぶりの日本一となる。その後のアジアシリーズでも優勝してアジア王者となる。翌年も中日との日本シリーズとなり、初戦は勝つも4連敗で連覇ならず。2009年は日本シリーズで巨人と対戦し、2勝4敗で日本一を逃す。しかし、この年の観客動員数は199万2000人で、札幌移転後の最高を記録し、札幌市中心部で行われたパ・リーグ優勝のパレードでは11万1000人のファンで賑わった。今年は開幕以降から怪我人が続出して、早くも夏場には優勝戦線から脱落。オフのドラフト会議では実力と人気を備えた斎藤佑樹を、ヤクルト、ロッテ、ソフトバンクと競合の末に獲得する。今年の主催試合観客数は194万人を数え、札幌移転後の動員数も延べ1000万人突破を記録。ファン獲得にも熱心で、北海道に根付いたプロ野球球団となった。

 日本ハムは「食とスポーツで健康を育てよう」をテーマに、プロスポーツからアマチュアスポーツまで、幅広くスポーツ支援に取り組んでいる。Jリーグの「セレッソ大阪」のスポンサーであり、役員も派遣して支援している。アマチュアスポーツでも、「関東学童軟式野球大会」を後援。「ニッポンハムカップ 千里浜ちびっこ駅伝」は22回を数える。「ユニセフカップ」を冠とした西宮国際ハーフマラソン、芦屋国際ファンラン、神戸バレンタイン・ラブランなどの駅伝やマラソンは、地域の人達の交流やスポーツをする機会づくりとして後援している。食における体の健康も大切だが、スポーツを通じた心の健康も重要なテーマとして、スポーツ文化の振興と普及を積極的に展開している。日本ハムでは食育のスローガンとして「食べること 楽しもう」を掲げ、食育の活動方針として「正しく食べることを通して、心と体の元気を応援します」「食べることを楽しみ、食べることを好きになる機会を提供します」「生命の恵みに感謝し、食べ物を大切にする姿勢を育みます」と謳っている。こうして日本ハムは食品メーカーの社会的責任として、五感体験を通した食育活動も積極的に推し進めている。


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