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桃太郎のビジネスコラム 46

☆ シュタイフのテディ・ベア☆

2005.04.19号  

 第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトはスポーツマンで、狩猟好きな自然保護論者として知られていた。そして大の熊好きだった。1902年11月、狩猟の時に熊を撃ち殺すことを拒否して助けたことが、ワシントン・ポスト紙にイラスト入りで紹介された。その後ある夕食会の席で側近達が、何か演出をしようと考えたのが、熊好きの大統領のテーブルに「縫いぐるみの熊」を置こうというアイデアでした。それを見た大統領は「私は熊には詳しいが、この熊は知らないな」と言ったのを受けて、参加者の一人がルーズベルトのニックネームがテディであることから、「テディのベアさ」と答えたと言う。「テディ・ベア」の誕生である。縫いぐるみの熊はシュタイフという会社製だった。アメリカのスミソニアン博物館にはルーズベルト大統領がお孫さんにプレゼントした1903年製のテディ・ベアが飾ってある。2002年このテディ・ベアのレプリカ2体がスペースシャトルに乗り、1体は宇宙ステーションでバイロット達の心を癒し、1体は地球に帰還してくる予定であったが、シャトル事故の関係で無期延期となってしまった。

 アポロニア・マルガレーテ・シュタイフは、1847年7月24日にフェルト産業が盛んな南ドイツの、小さな町ギンゲンで四人姉弟の三番目の娘として誕生した。彼女は一歳半の時に小児麻痺を患い、右手両足の自由を奪われて生涯車椅子の生活となってしまった。障害を持つ身でありながら、性格は明るく、大変前向きな努力家であった。甥や姪達の面倒見も良く、誰からも好かれる女性に成長した。1877年周囲の人達に支えられて「フェルト・メール・オーダー・カンパニー」を設立し、当時流行していたフェルト製品の販売を二人の姉達と始めた。3年後の80年、義理の妹へプレゼントするために、ファッション雑誌に載っている象のイラストを参考にして、得意のフェルトで針刺しを創った。これが近所で評判となりシュタイフ社へと発展するスタートとなった。5年後には5000個も生産するほどになり、製品の種類もウマやブタ、ロバなど、いろいろな縫いぐるみへと広がり売上も飛躍的に伸びていった。マルガレーテの仕事場で遊び回っていた甥や姪達が成長すると、やがてシュタイフ社に入社し、会社の発展に欠かせない役割を果たす事になっていく。1902年甥のリチャード・シュタイフが動物園でスケッチした熊を商品化する事を提案した。それまでのフェルトの縫いぐるみとは違い、手足のポーズがつけられ、肌触りも良く、抱っこもできる友達のように思える縫いぐるみだった。これが世界で初めて創られた「縫いぐるみの熊」となった。03年ドイツのライプチッヒで、開かれた展示会に出展したが、まったく人気が無かった。しかし、落胆していた展示会の最終日にアメリカのバイヤーから大量の注文を受けることができた。シュタイフ社の縫いぐるみの熊がアメリカに渡る事になり、後に「テディ・ベア」として大ブームを起こすことになる。

「Baby, let me be your lovin’ Teddy Bear Put a chain around my neck and lead me anywhere Oh let me be your Teddy Bear ・・・」「ベイビー、君のテディ・ベアになりたいナ 鎖でつないで、何処でも連れていって 君のテディ・ベアにしておくれ・・」
オールド・ファンにとっては懐かしい唄である。エルヴス・プレスリーの「ラブミー・テンダー」に続く二作目の映画「ラビング・ユー」(日本公開 さまよう青春)に挿入されたバラード調の同名主題歌とカップリングでリリースされた「テディ・ベア」のさわりの部分です。57年7月8日から7週間にわたって全米ヒット・チャート第一位を記録した。この頃エルヴィスは2年連続で年間25週に渡って第一位を占めるヒット・メーカーでした。この記録はビートルズやマイケル・ジャクソンも及ばない記録でした。エルヴィスがあるインタビューに答えて「縫いぐるみのテディ・ベアは大好きさ。いつも僕のそばにいるヨ」と語った事で、世界中のファンからテディ・ベアのプレゼントが溢れんばかりに届いた。これを見た映画製作者は慌ててこの曲を作らせて、映画のなかでエルヴスに唄わせたというエピソードが残っている。エルヴィスの軽快なアップ・テンポの歌がすばらしい事もあるが、世界中にいる多くのテディ・ベアのファンが、この曲のヒットを支えていたのだろう。エルヴスは57年のクリスマスに数千個のテディ・ベアを国立小児麻痺財団に寄贈した。

人気が広がりシュタイフ社の製品が売れると、ニセモノが出回るようになり、その殆どが粗悪品であった。品質の保持に努めていたシュタイフ社には苦悩の時期が続いたが、その頃には仕事を手伝うようになっていた甥のフランツが、シュタイフ社製品の左耳にボタンをつけるアイデアを思いついた。これがシャタイフ社のブランド・マークとして有名な「ボタン・イン・イヤー」誕生の経緯であった。シュタイフ社の最高級品質の証である。日本にも大変多くのテディ・ベアのファンがいる。マクドナルドやJALがオリジナル・キャラクターとしてテディ・ベアを採用したこともある。山中湖や伊豆、箱根、那須、蓼科、飛騨高山など至る所にテディ・ベア・ミュージアムがある。昨年には日本限定でピンクの「バニーテディ」も発売され、3月には、その新作「TUBAKI」が発売された。日本ではタカラが取扱総代理店になっており、全国に約130の販売取扱店がある。特定非営利活動法人である日本テディ・ベア協会はテディ・ベア誕生100周年を記念して日本小児精神医学研究会などを通じて被災地へのボランティア活動を行っている。「話しかけて、頬を寄せて、抱きしめて、嬉しいときも寂しいときも、縫いぐるみは子供のハートの一番近くにあるおもちゃ。だからこそ、最良のものを与えてあげたい。」創業者マルガレーテ・シュタイフの子供達に対する思いが、シュタイフ社のコーポレート・アイディンティティにほかならない。そして、この思いがシュタイフ社のブランド・イメージを支えていると共に、マルガレーテの魂を今に伝えている


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