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渋沢栄一は近代日本を代表する実業家であった。第一国立銀行(のちの第一銀行 現みずほ銀行)の設立を始め、東京海上火災保険、東京ガス、清水建設、新日本製鐵、帝国劇場、浅野セメント、王子製紙などを設立した。日本を代表する数多くの企業創設に関与し、東京証券取引所や東京商工会議所の設立にも関わった。1840年に現在の埼玉県深谷市郊外で生まれる。父の晩香は教育熱心な人で、幼少の頃から漢詩や論語を教え、7才頃になると従兄弟の尾高淳忠につかせ本格的に論語を学ばせた。25才の時に一橋家に仕官し、28才の時に将軍徳川慶喜の名代である昭武に随行してヨーロッパに渡り、進んだ思想、文化、社会を学び翌年帰国する。静岡に蟄居していた慶喜を訪ね、藩の資金で「組織だったビジネス」を開始する。この時の「商工会所」が後の東京商工会議所の設立へ繋がっていった。30才で大隈重信の説得により明治新政府の、大蔵省に仕え国税長官や大蔵次官になるが、大久保利通らと財政運営の意見が合わず辞任する。渋沢が25才から35才になる頃には、一橋慶喜が徳川第15代将軍になり、大政奉還、五箇条ご誓文の発布、戊辰戦争の終結、廃藩置県・地租改正、西南戦争と江戸時代から近代国家日本に、生まれ変わっていく動乱の時期だった。実業界に身を置くようになった渋沢は、巨富を得ることも可能であったが「私利を追わず公共を図る」考えを生涯貫き、「論語とソロバンの一致」を理念とした。500もの企業設立に関与できたのも、立ち上がると後進に譲り、企業経営の規範・基準は「論語」に照らすよう諭し、判断の悩みは「論語の物差し」に照らして決断するよう指導した。喜寿を迎えて実業界から引退した晩年は、600以上の社会事業に取り組んだ。母「えい」の影響を受けていた渋沢は日本女子大、共立女子大、東京女学館などを創設し女子教育にも力を注いだ。数々の偉業を成し遂げた渋沢であっても「90才を前にするまで生きてきていろいろ手がけたが、満足出来る仕事はあまりにも少なかった」と語っている。近代日本のプロデューサーは享年92才で永眠。今は台東区谷中の墓地に眠る。
大倉喜八郎は1837年に新潟県新発田で生まれる。17才の時に武士と平民の差別に激怒した大倉は「江戸で大商人になって、見返してやる」と江戸に出て、30才の時に神田和泉橋通りに鉄砲商「大倉屋」を開業した。これを足場に官軍御用達となり、軍需関係の取引は三井、三菱などの財閥系を凌いで独占的な受注を得た。戊辰戦争、台湾出兵、日清・日露戦争などで莫大な利益を上げ、近代日本の礎となる企業を数々と興した。大倉は35才の時に欧米の商業を学ぶため、一年以上もかけて視察旅行に出た。ロンドンやローマに滞在したときに、明治政府が岩倉具視を全権大使として派遣した「岩倉使節団」と出会い、大久保利通や木戸孝允、伊藤博文らと殖産興業について語り合う機会を得た。大倉は帰国後「大倉組商会」を設立し、台湾出兵や西南戦争での過酷な軍需への対応が、旧知の大久保利通らに認められ、仙台の洋風刑務所である宮城集冶監を受注した。その後も文明開化の象徴である鹿鳴館の建設も、工費14万円で受注することになる。50才になった1887年には藤田組と大倉組土木部門を合併させ、「有限責任 日本土木会社」を設立。東京電灯(後の東京電力)、日本銀行、歌舞伎座などの日本を代表するような建築を請け負った。日本土木会社はその後分割を余儀なくされ、大倉土木組(現 大成建設)と大倉組(後の大倉商事 1998年倒産)となった。軍需で上げた巨大な富で東京電灯、大日本麦酒(現 アサヒビール)帝国劇場、東海紙料(現 東海パルプ)日本化学工業、山陽製鉄所、帝国製麻(現 帝国繊維)日本製靴(現 リーガル)日清製油、札幌麦酒など多くの企業の設立に関わった。軍需に関与していた事から「政商」「死の商人」と云われたこともあった大倉だが、慈善事業などにも巨額の寄付を続けた。1911年には今の金額で云えば100億円にも相当する100万円を、社会福祉法人・恩賜財団厚生会に寄付。札幌冬季オリンピックで日の丸飛行隊が金銀銅のメダルに輝いた、大倉山シャンツェも秩父宮の要請で建造費を出している。大倉は東洋美術品の収集家としても有名で、日本初の私設美術館として財団法人大倉集古館を設立。(現在は家督を譲った長男喜七郎が創設したホテルオークラ内にある)大倉の寄付で開校した大倉商業学校(現 東京経済大学)の設立に際し、「金庫に封じて子孫に残すも、いたずらに怠慢の助にならん。公益に供用して商業を振るふの資となさん」近代日本のスポンサー役でもあった大倉は、1928年に享年90才で大腸ガンのため永眠。
渋沢と大倉は年齢も近く、欧米の進んだ社会を見聞した二人は知遇を得、士農工商制度の名残が濃く「商いは卑しい」と言う商業軽視の風潮を改革するため、二人が発起人となって東京商工会議所を設立。札幌麦酒(現 サッポロビール)設立などにも尽力した。87年初頭、外務大臣井上馨は渋沢栄一、大倉喜八郎らに新ホテル建設を諮る。建設は大倉率いる大日本土木会社で1890年11月に開業した。総建坪1300余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層建、室料は最下等50銭、2食付き2円50銭〜9円であった。前年には大日本帝国憲法が発布されており、1894年に日清戦争が勃発、1903年には新橋・品川間に路面電車が走り、04年には日露戦争勃発と激動が続いていた時代であった。07年1月に帝国ホテルとメトロポールホテルが合併し「株式会社 帝国ホテル」が設立された。10年には宮内省御用となる。大正時代にはアメリカ人フランク・ロイド・ライトが設計した新館の、落成披露の準備中に関東大震災が発生する。この年には外国企業や各国大公使館事務所として客室を提供。昭和になり国際連盟調査団長のリットン卿、チャールズ・チャプリン、ヘレン・ケラー、中華民国主席、ワルトハイム国連事務総長の来泊などがあり、連合軍司令官のマッカーサー一行の昼食会なども開催された。50年には政府登録ホテル第一号となり、53年には国鉄特急列車「つばめ」号の食堂車経営も始める。75年にはエリザベス女王・フィリップ殿下の来館、87年にはジスカール・デスタン フランス大統領の宿泊。平成の時代になっても様々な要人の来泊を得たり、国際主要会議の議場を提供したり、各国にある日本大使館へシェフを派遣したりして世界に誇れる日本の最高級ホテルとなっていった。
日経プラスワン「何でもランキング」の「泊まりたいシティホテル」のNO1が帝国ホテルである。2002年に4回以上シティイホテルに、泊まったことのある「ホテル通」にアンケート調査した結果である。高級感と知名度では群を抜いて帝国ホテルとなった。大リーガーのジョー・ディマジオとハネムーンに来日し、帝国ホテルに宿泊したマリリン・モンローが記者達の「何を着けて寝ているか」との質問に、「シャネルの5番だけヨ」と答えた有名なエピソードが残っている。(本当はボディラインを崩さないように、寝る時にもコルセットを着けていたと云われている。男達の思い描く可愛い女を演じていたようだ)50年以上も前の事が今に伝わるのは、モンロー伝説と共に雑誌記事が当時の庶民には縁遠いシティホテルを衆知させた事であった。「夢のスターが泊まるのは、どんなホテル?」帝国ホテルは料理のレベルも超一流である。名物シェフで20年間も総料理長を努めた村上信夫は、58年に日本で初めてバイキング料理を披露して大成功を収めた。東京オリンピックでは選手村の総料理長を務め、食事に不安を持っていた外国の、アスリート達を大満足させた。「料理の味は盗むもの」という古い考えを「料理の味は公表するもの」とレシピをプロの料理人から主婦にまで公開。日本における西洋料理レベルアップの功労者である。世界でも屈指と云われるフレンチ・シェフ三國清三も、帝国ホテルで鍋洗いのアルバイトをしていて村上に認められ、駐スイス日本大使館の料理長として大抜擢された。帝国ホテルの沿革を見ていると、明治中期以降の日本の歴史そのものである。鹿鳴館の時代から欧米に学び国力をつけ、幾つかの戦勝もあったが、第二次大戦で全てを失い、そして欧米に追いつき追い越せと必死に生きてきた日本人が、世界に誇る経済大国となった。そんな歴史が伝統と格式を生み、国際的な映画スターや要人の宿泊、国際会議の開催、洗練された接客レベルの高さなど、全てに最高級のイメージを創り出している。11月15日には紀宮さまと東京都職員の黒田慶樹さんの、結婚式が帝国ホテルで行われる事が決定した。国民にとっては、まことにお目出度いことである。報道によると天皇、皇后両陛下もご出席されるという。「帝国ホテル」のブランド・イメージに、皇女の結婚式で新たな輝きが加わった。
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