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5月16日読売朝刊に「みゆき族集合」との囲み記事が載っていた。父の日にあたる19日にアイビールックに身を包み、目印に「VAN」のペーパーバックを持って銀座和光前に集合しようと云う呼びかけだ。日本のアイビールック生みの親である石津謙介が5月に93才で亡くなった追悼を兼ねて「お父さん達が輝いていた時代を、思い起こして欲しい」と、60年代に一世を風靡した「みゆき族」に参集を呼びかけた人がいる。そして、20日スポニチ朝刊に「みゆき族復活 40年ぶりに東京・銀座に現れた」とあった。ボタンダウンのシャツに細身のスラックスという、米アイビーリーグの学生ファションをアレンジしたアイビールックが人気を呼び、このスタイルで銀座みゆき通り周辺をたむろした若者達は「みゆき族」と呼ばれた。63年は団塊の世代が高校生になった時期で、翌年創刊された平凡パンチがアイビールックのブランドである「VAN」を特集したところ、爆発的な反響が全国に広がっていった。それまでの若い男達の消費はレコードに本やスポーツ用具程度だったのが、ファションにお金をかけるようになり、若者達が消費文化の主役に躍り出るようになった。それ以来、流行は若者達が創るようになっていった。「アイビーは一時の流行ではない、いつまでも大切に育て、風俗として定着させたい」と云う石津の言葉通りになり、そして風俗はフライディ・カジュアルとして文化にまで昇華していった。
戦後の日本男性に「おしゃれ」を目覚めさせた石津謙介は、11年岡山の紙問屋に生まれた。「メンズ・ファションの神様」は小学生の頃には片鱗をみせ、徒歩で40分も掛かる師範付属小学校への転校を希望した。当時の小学生は着物で通学していた時代で、付属小学校の金ボタン制服に憧れてのことだ。中学になると制服を洋服屋に持ち込み、足や首筋を長く見せるように、丈を短くして襟のカラーも低くした。これは石津が最初にデザインしたファションだったと云われる。明治大学に入るとオートバイ部を創り、芸者を乗せて伊豆や日光へ遠出。飽きると自動車部を創り、幌つきフォードで円タクのバイトをして20日間日本一周。物足りなくなると航空部まで創り立川基地で操縦訓練まで受けた。グライダー教官の資格を得たため戦地に行かずに済んだという。この間、外国のファション誌などを取り寄せたり、自ら舶来モノを身に付けたりして欧米の服飾に関する知識を蓄えていた。三越の店員が教えを請いに通ったこともあったという。また、赤坂フロリダなどのダンスホールにも通い詰め、乗馬やモーターボートなどにも興じていた。これだけ遊べば裕福な老舗紙問屋の実家も黙ってはいない。仕送りも止められた石津は渋々実家に帰り家業を継ぐことになった。交際をしていた同郷のモダンガール昌子と結婚し、プレーボーイ石津謙介の年貢は納められた。39年の紙統制によって家業は4代目にしてたたむことになる。両親を岡山に残し、中国天津に渡り兄の友人が経営する繊維雑貨商を手伝うようになり、中国語はもちろん英語やロシア語も話せるようになった。この頃にデザインしたスコッチテリアのマークの入ったネクタイがプレゼント用に飛ぶように売れた。戦争が終われば日本人も洋服を好むようになり、ビジネスとして受け入れられる事を確信した。語学力がついたおかげで、終戦後にアメリカ憲兵隊の通訳という仕事が舞い込んできた。その仕事でプリンストン大学出身のオブライエン中尉と出会いアイビーの話を聞いた。
アメリカ東部にレベルの高い優秀な人材を、各界に送り出している名門大学が8校ある。1636年設立のハーバードを始めイエール、ブラウン、コロンビア、コーネル、ペンシルベニア、プリンストン、そして一番新しいのが1769年設立のダートマスで、いずれも長い歴史を誇っている。1937年に8大学の参加でフットボール連盟が結成された。これを報じたザ・ニューヨーク・ヘラルド紙の担当記者が、煉瓦づくりの校舎に蔦(つた=IVY)が生い茂っていることや花言葉が学生達の友情も意味することから「アイビーリーグ」と名付けた。このアイビーリーグ出身者の殆どは良い家柄の育ちで、学問のレベルも高く、優秀な頭脳は社会的にも成功している人達が多い。彼らはトラディショナルで着やすく、活動的なファションを身につけていた。イギリスや北欧から移民してきたアングロサクソン系の子孫はエリート意識が強くお祖父さんも、お父さんも、自分も、子供もアイビーリーグ出身者となっている場合が多い。彼らはパーティなどで正装する時は別として、日常生活は大変質素で着古した親譲りのジャケットやセーターを平気で身につけている。ジャケットの肘が破けるとエルボパッチを充てて更に何年も着続けている。お祖父ちゃん譲りのモノは、むしろ誇らしげに着る風潮さえある。アメリカの国際衣服デザイナー協会が、この伝統的なファションに着目して名付けたのが「アイビールック」である。このアイビールックは1940年代後半から60年代前半にかけてメンズ・ファションの世界で注目を浴びるようになった。アメリカではブルックス・ブラザーズ、日本では石津謙介が率いるVANである。
中国から引き揚げてきた石津は1948年レナウンに入社して、大阪支社の企画部長にまでなったが、51年「会社の歯車になって働くのが性に合わない」と言って退社。「退職金はいらないから場所が欲しい」と言って、今はアメリカ村とよばれる大阪・御堂筋の路地の一角に「石津商店」を創業する。社名の野暮ったさに悩んでいた石津は「VAN」と社名変更した。オランダ語では代表的な男子の名前で、日本で云えば太郎のような名前である。英語では先頭に立つとか先駆になると云う意味がある。石津「謙介」とレナウン時代からの盟友「高木」一雄の名前から取った「ケンタッキー」ブランドはアメリカ調の斬新なデザインに加え、音の響きが良く覚えやすい社名も相まって、一流洋品店やデパートが競って買い付けに来た。戦後の民主主義教育で自己主張をしはじめた若者達の心を掴むコンセプトを考えていた石津は、55年に株式会社にして、社名も再び「ヴァン・ジャケット」と変更した。翌年、オブライエン中尉から聞いたアイビーリーグを思い浮かべ、アメリカ東海岸を視察する。この時にアイビールックは日本でも受け入れられることを確信した。アパレル業界では石津が名付けた1型(伝統的なモデル)2型(改良型)3型(新発想型)と云う言葉があり、現在でも既製服つくりの基本的な考え方となっている。石津が推奨した都会人の万能着としてのブレザーも大人気を博し、提唱したT(時)P(場所)O(機会)を考えた着こなしの提案でもVAN製品が飛ぶように売れた。社会現象にもなったブームで年商数百億円のビジネス・サイズになると、創業時のように「自分が着たい服を創る」事は不可能となった。ビジネスは石津の意図しない処で飛躍的な伸びを続けた。丸紅、三菱、伊藤忠など総合商社の金融や与信もあり異常な膨張となり資本介入や役員が派遣された。経営危機が伝えられても経営の建て直しを大儀に、一世を風靡したVANブランドを手中に収めたい商社の商魂も見られた。石津は71年頃には情熱も薄れ、商社が介入するようになると会社にも寄りつかなかったという。間もなく社長の椅子も降りてしまった。78年ヴァン・ジャケット倒産。負債500億円。当時では戦後5番目の大型倒産だった。79年中国体育運動委員会からモスクワオリンピックに出場する300名の選手団の衣装デザインを依頼された。のちに中国が参加を見送ったため、型紙を創っただけで終わってしまったがデザイナーとしての石津謙介復活の出来事だった。95年「毎日ファション大賞」96年「日本繊維新聞ニッセン大賞」を受賞した。ともに石津が提唱した「フライディ・カジュアル」に対する評価だった。会社から女友達に電話をして「昼飯を食べに行こう」と誘って、北海道までカニを食べに行くような、遊び心を持った自由奔放な趣味人でもあった。晩年は朝起きると、その日に着る服のコーディネートを決め、首にネッカチーフを巻き、帽子を被ったファションで生活を楽しむ日々だったという。ユニクロを展開するファーストリテイリング会長の柳井正も、アイビールックを追いかけた団塊の世代である。「父がVANショップを経営していたことからカジュアルウェアーに親しむきっかけになった。いわば先生のような人」と語っている。
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