ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 62

☆ マッカーサーのサングラス☆

2005.08.09号  

 1830年、ヤン・ヤコブ・ボシュがドイツに生まれる。子供の頃から10才年上の兄の仕事である眼鏡づくりを手伝うようになった。19才の時に眼鏡職人としての成功を夢に、自由の新天地アメリカに渡った。アメリカでは眼鏡職人の仕事が無くて木工職人として働いていたが、眼鏡職人の夢は捨てきれず、ヨーロッパの眼鏡を取寄せて売る事業を始めた。
そんな頃、1828年生まれのヘンリー・ロムと出会った。家具職人であったロムも事業の成功を夢見ていたドイツからの移民だった。二人は意気投合し事業の協力を誓いあった。
ロムはボッシュの眼鏡の輸入販売事業に出資、1853年ボッシュはこれを元手に眼鏡店を開くようになった。二人の名前からつけた「ボシュロム社」の誕生である。
初めの頃は経営も順調ではなかったが、ある時に道端で硬質ゴムの欠片を拾い、眼鏡のフレームに使えないかと考えた。当時は角製フレームが一般的であったが、直ぐに折れやすいという欠点があった。バルカナイトという硬質ゴムで造った眼鏡フレームは、軽く丈夫で角製のフレームを遙かに凌ぐ品質であった。この新しい素材で造ったフレームが飛ぶように売れたことで、ようやく会社としての基盤を築くことができた。
1874年には顕微鏡の製造を始めた。カールツアイス社のカメラ用レンズも製造するようになり、高い評価を得たボシュロム社はアメリカ国内有数の光学機器メーカーになった。
その後、アメリカ政府からサーチライト用レンズの開発などの仕事を得られるようになり、
徐々にアメリカ政府からの仕事も増えて結びつきも強固になっていった。
現在ではコンタクトレンズでも有名な世界一の光学機器メーカーに成長している。

 1927年5月チャールズ・リンドバークが初の大西洋単独横断飛行に成功し「翼よ、あれがパリの灯だ」との有名な言葉とともにパリに降り立った。パリに着くとすぐにチャールズはルイ・ヴトンの店に立ち寄ってボストンバックを買い、土産物を詰め込んでニューヨーク行きの船に飛び乗った。郵便局員という民間人だったチャールズがニューヨークに着いてみると熱狂的な歓迎が待ち受けており国民的英雄となっていた。英雄の狂騒はのちに子供が誘拐事件に巻き込まれてしまう事件にまでなってしまった。
しかし、チャールズが登場する前に単独飛行ではなかったが、8 人が横断飛行に成功していた。その中にアメリカ陸軍航空部隊のジョン・マクレディ中尉という軍人がいた。
ジョンも 1923年に北米大陸無着陸横断飛行に成功した空の英雄であった。ジョンは高空
での飛行中に強い太陽光や反射光による眼精疲労や視力の低下、吐き気や頭痛などに悩み続けていた。当時はパイロットの風よけゴーグルや色つき眼鏡程度のものはあったが、光学的な裏付けなどは何もなく、一般的に販売されているサングラスの表面は波打ち、グラスの内部には気泡があり、かえって目に害を与えるような粗悪品ばかりであった。
ジョンはボシュロム社にパイロット用サングラスの開発を依頼した。ボシュロムでの開発は困難を極め、紫外線の99%、赤外線の96%を遮断する目標に6年の歳月を費やした。
1929年にパイロット用サングラスが完成し、グラスが涙の滴のような形をした緑色レンズのオリジナル・デザイン「ティア・ドロップ・シェイプ」として発表された。翌年、アメリカ合衆国陸軍航空隊は「アビエーター・モデル」として正式に採用した。のちに「レイバン・グリーン」と云われた、このサングラスはパイロットのシンボルともなった。
この優れたサングラスは一般にも広く知られるようになり、1936年にアビエーター・モデルを「クラッシック・メタル」として市販するようになった。翌年には「光線(Ray)を
遮断(Ban)する」として、そのブランド名を「レイバン」とネーミングして、爆発的な
人気を得るようになった。今ではパイロットは勿論のことハンター、ポリス、ヨットマンなどのプロ仕様では「レイバン」は群を抜いており、世界最古にして世界最大のシェアを誇るサングラス・ブランドとなった。

 間もなく終戦記念日である。小泉総理大臣の靖国神社参拝の問題が物議をかもしているが、この時期になると必ず報道されるのが此のシーンである。1945年 8月30日 午後2時05分、愛機バターン号でマニラの米軍基地から上海経由で厚木基地にやって来た長身の連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は黒いレイバンをかけ、パイプをくわえて愛機のタラップを降りてくる。フィルムが掠れたような映像である。
ソ連が終戦間際になって急遽対日参戦したことで、戦後の日本が共産主義化する事に懸念を抱いたアメリカのトルーマン大統領は、日本の無条件降伏からわずか半月後に、占領国暫定政権の最高執政者であるマッカーサーを送り込んできた。
軍服姿ではあるものの丸腰で敗戦敵国に降り立つ最高司令官の余裕溢れる姿に、敗戦国としての悲哀を感じた国民も多かった事だろう。マッカーサーはウェストポイント陸軍士官学校を開校以来の成績で卒業し、軍人としても元帥の地位まで昇りつめた。
トルーマン大統領からは、その後の朝鮮戦争に対する方針の違いから解任され、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」との名言を残して退役した。対照的なのが同じウェストポイント陸軍士官学校で落第生であったというアイゼンハワーは、ヨーロッパ戦線の最高司令官から大統領にまでなった。人生の運否天賦を感じさせるマッカーサーの退役であった。
それにしても、マッカーサーが厚木基地に降り立つレイバン姿は印象的で、日本人の目に強く焼き付いている。その後は戦後の銀幕を飾ったスター達にも受け継がれていった。

 サングラスもファションの一部となり、古くは「トップガン」「イージー・ライダー」「ブルース・ブラザーズ」など多くの映画で主人公を印象づける重要な小道具となっている。
日本でも「西部警察」の大門警部を演じた渡 哲也がレイバンを着用していた。
1999年イタリアの眼鏡メーカー「ルクソティカ」がボシュロムからサングラス事業部を買収した。ファションブランドのブルガリなどのサングラスを手がけるメーカーだけに、従来のクラシックで硬派なイメージから流行色を強く打ち出して、若者や女性に訴え掛けている。日本でも同年にボシュロム・ジャパンからルクソティカの日本子会社ミラリ・ジャパンに輸入販売権が移った。
この頃からレイバンは有名人を起用したイメージ戦略を加速させている。F1のスーパースターであるアイルトン・セナー・モデル、おばさま族のヨン様ことペ・ヨンジュン・モデル、サッカーの中田英寿モデル、Bzのミュージシャン稲葉浩志モデルなどである。
野球の新庄選手も今年の6月まで広告契約を結んでいたし、タモリも長年の愛用者である。
日本女子プロゴルフ界のスーパー・アイドル横峯さくらと姉の留衣も、2月にレイバンとアドバイザリー契約を結んだ。横峯姉妹が現役である限り支援するという超異例の現役終身契約である。レイバンでは3年前からスポーツ界への進出を目指してトップ・アスリート達向けサングラスの技術開発に着手していた。今年に入って新規参入の新製品「Xrays」が完成し、横峯姉妹が契約者第一号に登用された。レンズは天候状況などに合わせて8種類が開発され、フレーム色は横峯のイメージを際だたせるように「さくら」色も用意された。レイバンにとってはスポーツ・サングラスの代名詞とも云われ、ゴルフ界でも抜群の知名度を誇るオークリーへの宣戦布告であり、横峯さくらにとっては宮里藍を親友としながらも、オークリーと契約している宮里へのライバル心が垣間見られる。
レイバンは直営店を持たず眼鏡店チェーンや百貨店で販売しており「レイバン エックスレイズ」はスポーツ用品店でも販売されている。




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