1946年、第二次世界大戦後の暗いムードに覆われていたパリのモンテーニュ通り30番地にオートクチュール・メゾン「クリスチャン・ディオール」がオープンした。
ディオールは 05年 1月ノルマンディーのグランビルに生まれ、父親の希望で政治学を学び外交官を志した。父親の死後は画商に転向したが、帽子のデザインをスケッチしたのが評判を呼び、一転してファション界に身をおくようになった。38年にロベール・ピケのメゾンで指導を受け、41年にリュシアン・ルロンのメゾンに入った。大戦に出征し、除隊後はルロンの店のモデリストになったが、ディオールの才能に目を留めた木綿王マルセル・ブサックの援助を受けて独立した。翌47年春の最初のコレクションに、ペチコートで膨らませて踝まであるフルスカートに、ゆったりしたなだらかな曲線を強調した肩、細く絞ったウエストの優美なスタイルを「花冠ライン」(又は8ラインとも呼ばれた)として発表した。そのシルエットの美しさに驚いた米誌ハーバース・バザーの編集長だったカーメル・スノウが「これはまさにニュー・ルックね」と云った事から、「ニュー・ルック」と呼ばれて世界のファション界に旋風を巻き起こした。「花冠ライン」の発表により世界中の女性のスカートが、従来の怒り肩で短いモノから、なで肩と優美なロングスカートへと変化していった。
ニュー・ルックのシルエットは19世紀のファションを思わせるような、作品としては回顧的なデザインであった。第二次大戦に突入したことでファション界は活動が抑圧される傾向にあり、女性達も物不足からオシャレを忘れかけていた時代であった。ニュー・ルックは大戦後の華やかなファション界復活への転換期に発表され、女性達にも明るい希望を与えることになった。フランスのファション業界としても世界におけるバリの威信をも復活させた意義は大なるものがあった。ニュー・ルックはディオールの名声を世界に響かせる事となり、その後の 10年間はディオールのシルエットが世界のファション界を牽引していくことになる。48年に「ジグザグ・ライン」50年に「バーティカル・ライン」51年「オーバル・ライン」52年「シニュアス・ライン」53年「チューリップ・ライン」54年「Hライン」55年「Aライン」56年「アロー・ライン」57年の最後の作品となった「スピンドル・ライン」と次々と特徴のある斬新なシルエットを毎年生みだし「流行の神様」と呼ばれた。ディオールは世界のファション界のトレンド・セッターとなり、優雅さを兼ね備えたシルエット・ラインは世界の皇族や女優らにも愛された。皇后陛下がご成婚された時のウエディング・ドレスをデザインしたことでも知られている。57年イタリアのモンテカティーニで心臓麻痺のため52才の若さで急逝した。
さて、数々のファション・ブランドを生み出すパリのファション界で使われている、普段聞き慣れない言葉や仕組みについてふれてみよう。「オートクチュール」という言葉がでてきますが、オートはフランス語で“高級な”クチュールは“仕立て、縫製”を意味し、単純な和訳では仕立て服の事を言います。これは既製服に対しての仕立て服のことだが、パリのファション界ではパリの高級衣装店組合(通称 サンディカ)の組合員になっているメゾンで作られる、特別注文の高級仕立て服のみをオートクチュールと云っています。「サンディカ」は1868年にシャルル・フレドリック・ウォルトによって創立され、パリオートクチュール・コレクションやパリプレタポルテ・コレクションを主催し、服飾関係の専門学校も開設している。設立当初は同業者組合として発足したが、組合規約が無くて組合員数も多くなり、安仕立ての衣装を販売する組合員店が多くなってしまった。
1911年にサンディカを再発足させて、オートクチュールと銘打つ為の厳格な規約を定め、その規約に沿ったクチュリエのみを正式メンバーとする事にした。これによりサンディカもオートクチュール自体にも付加価値がつくことになり、それ以降はファション界の最高峰として君臨していく事になる。組合規約の条件を満たして経営されている衣装店を「メゾン」と呼び、現在は 23のメゾンがある。メゾンでオートクチュールのデザイナーであり、デザイン・テーマの決定から裁断・
縫製まで全てを統括し、企画を製品化する機能と権限を持つ総責任者を「クチュリエ」という。女性の場合は「クチュリエール」と云う。60年代まではオートクチュールがファション界の主流であったが、70年代に入り「プレタポルテ」が主流になってくる。プレタポルテとは既製服のことであるが、オートクチュールのデザイナーによる高級既製服を、一般的な既製服とは一線を画して呼ばれている。
ちなみに、ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、パリ、東京(開催順)で開催される五大コレクションとはプレタポルテ・コレクションである。
クリスチャン・ディオールは忙しい創作活動の中にあっても後進の指導には力を注ぎ、イブ・サンローラン、ピエール・カルダン、ギィ・ラローシュらを育てた。ディオールの死後、21才の若さでイブ・サンローランがメゾンのクチュリエに抜擢され、その後60年にマルク・ボアン、89年にジャンフランコ・フェレに引き継がれた。現在は60年にジブラルタルで生まれたジョン・ガリアーノがクチュリエに就任している。ガリアーノは84年セントマーチンズのテキスタイル科、モード科を主席で卒業し、85年にロンドンでデビューした。パリ・オートクチュール協会の招待で 89-90年の 秋/冬コレクションで作品を発表し、91年にパリ・コレクションの正式メンバーになった。95年にはジパンシーのデザイナーに抜擢され、3度目のブリティッシュ・デザイナー・オブ・ジ・イアーを受賞。クリスチャン・ディオール創立50周にあたる96年からクリスチャン・ディオールのデザイナーに就任し、97年にオートクチュール・コレクションにデビューした。ガリアーノは過激で先鋭的なデザインで話題を集め、翳りぎみだったクリスチャン・ディオールの人気を一気に甦らせてブランドイメージの若返りに成功させた。
クリスチャン・ディオールは53年に大丸との協力で、日本初とされるファション・ショーを開いた。その後カネボウが国内向けのライセンス生産を行っていたが、ブランド管理を徹底する本国の方針を受け入れ、97年から直輸入のみの販売に切り替えた。03年暮れに表参道にクリスチャン・ディオール表参道店をオープン、地下1階から地上4階までメンズウェアーやレディスウェアーが並べられ、バックなどの小物からシューズやファインジュエリーまで扱っている。化粧品売場はクリスチャン・ディオールでも世界最大とも云われ、初めてのエステやネイルカラーのコーナーも試みられた。昨年の8月には神戸、10月に東京・銀座に世界最大級のショップを相次いでオープンした。世界で日本の占める売上は約15%となっており07年までに倍増する計画だと云う。現在はLVMHモエヘネシールイヴィトン・グループに属している。
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