ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 75

☆ ドイツの伯爵夫人☆

2005.11.15号  

 1929年、ドイツのフランクフルト郊外で、アドルフ・ダニエル・コップが10人の職人達と革製品の工房「コンテスCOMTESS」を開いた。「常に最高のものを提供する」をコンセプトに昨年75周年を迎えた。優美なデザインと熟練した職人達が、仕上げる確かな品質は高級バックとしてエルメスなどと並び、欧米のセレブなご婦人達に高い人気を得ている。エルメスとはプライスゾーンや商品アイテム、ファミリービジネスからのスタートなど似ている部分も多く、コンテスでは唯一の競合ブランドと考えている。ファミリービジネスの長所は、高い品質と品質を維持する管理能力を徹底できる事だ。一つのバックには100ヶ近いパーツが組み合わされ、300近い作業工程にもなるという。ジュエリーロックと呼ばれる留金具も、イタリアの鋳物工場で手作りされている。美しさと強さを兼ね備えた金具は、留める時に出る音の音色にまでこだわりを持っている。コンテスの商品には各製造工程責任者の、手書き署名が記入されたカードが入っており、厳しい品質検査に合格した製品のみを出荷。品質責任の所在を顧客にまで伝えている。コンテスのバックは伝統と革新を受け継ぎながら、熟練マイスター達の技法にこだわり、品質と品位を維持するためには、作れるだけの量しか販売せず、常に最高のものを提供することを頑なに貫いている。熟練したマイスター達によって手作りされた一つ一つの商品は芸術的な領域となっている。

 コンテスにはクロコダイルやナッパなどの素材も扱っているが、ホースヘア・バックはコンテスの代名詞とも言える製品であり、独自の高い技術が注がれている。コップはイングランド南西部にあるサマーセットシャーを訪れたときに、椅子用に使われていたホースヘア張地をドイツに持ち帰った。30年代には世界で初めてホースヘアを素材に使ったバックのサンプルを作り、40年代にはホースヘアのフルコレクションを作って本格的なビジネスの展開を始めた。60年代までのホースヘア・バックの色は黒だけであったが、現在ではシルバーやブラウン、赤ワインのようなコンテスレッドに人気がある。コレクション毎に新たに開発された色を発表しており、定番色と合わせて200色近く展開。ホースヘアは他の素材よりも熱や摩擦に強くキズがつきにくい特徴があるが、その特徴が故に加工が難しく、縁を革で縫ったり折り襞をつけたりする加工は高度な熟練を要する。コンテスのホースヘアはモンゴルの草原を駆ける馬毛を使用。染色するには生きた馬からとった毛でなければ染まらないことから、染色する色によって馬を選んでいる。黒や白で使用するときも染め直して本来の色に近づけ、他の色に染める時には一度脱色してから染め直すという。産業革命の頃からの伝統的な織機は、イギリスのジョン・ボイド社が37年に創業した時のままで、同じ手法で織られている。この織機は世界に50台しか現存せず、ボイド社はその内の30台を所有しているという。繊細で古典的な技法で織るため、一日一台あたり2mほどしか織ることができず、その内ハンドバックに使用できるのは半分位だという。

 『1183年のクリスマス・イブの夜。イギリス国王ヘンリー2世は後継者を決めるために忠臣マーシャルに命じて一族を召集した。長子リチャード、次男ジェフリー、末子ジョン、フランス国王フィリップ、フィリップの姉で王の愛人であるアレース達が集まった。その中には王の居城から離れて軟禁されていた王妃アキテーヌの姿もあった。ジョンを溺愛するヘンリーと、リチャードを嫡子と主張するアキテーヌが憎しみをぶつけ合い、ジェフリーとフィリップはこの葛藤を利用して漁夫の利を狙い王と王妃の排除を画策、リチャードに愛情を押し売りして、それを盾にヘンリーに母国アキテーヌの領地返還を迫るアキテーヌ、王室一族のこのような有様に心悩ますアレース・・・ヘンリーは3人の息子を処刑しようとしたが、我が子を斬ることはできなかった。崩れ落ちたヘンリーのもとから一族の全てが去って行きクリスマスは終わった。人生の冬を迎えたヘンリーは、吠えることを忘れたライオンのように、そよ風が通り過ぎる川辺に一人たたずむのみであった』
王位の継承と財産を巡る権力闘争、一族の人間関係と憎愛を描いた映画「冬のライオン」のあらすじである。映画であるため多少の脚色はあるが史実に基づいた映画である。アカデミー賞にはアキテーヌ役の演技派女優キャサリン・ヘップバーンが3度目の主演女優賞(キャサリンは12回ノミネートされて4度と最多受賞している。33年「勝利の朝」、67年「招かれざる客」、81年「黄昏」)、ジェームズ・ゴールドマンが脚本賞、作曲のジョン・バリーが音楽賞に輝いた。その他いくつもの映画賞に輝き世界的にヒットした68年の大作である。かっては日本の皇室やヨーロッパの王室には、爵位がありさまざまな特権をもっていた。五爵の最高位である公爵は元々王族の私生児に与えられた階級だったので、王家以外では侯爵が最高位になる。伯爵は地方領主のことで、子爵は伯爵の副官がであったが、後に後継嫡男の事をさすようになった。男爵は伯爵の側近を呼ぶ場合が多い。このような貴族達は皇帝、国王、大公、天皇などと呼ばれる君主から叙爵され、与えられた領地とともに、品位と格式をその子孫に代々引き継いでいった。伯爵は所有する領地によってはかなりの権力があり、中世では国王といえども地方領主の代表というだけではさほど権威はなく、国王よりもはるかに豊で権威を持つ者もいた。フランスのアキテーヌ伯爵家歴代の大領地を受け継いだアキテーヌはフランス王妃でもあった。夫であったルイ7世王は富も権力も格式も妻のアキテーヌには遠く及ばなかった。アキテーヌはルイ7世との離婚後にアキテーヌ伯爵家歴代の権利と財産を全て携えて、イギリスに渡りヘンリー・プランタジュネットと再婚した。プランタジュネットは後にヘンリー2世となり、アキテーヌはイギリスでも王妃となった。フランス最大の富と権力を持ち、仏英両国の王妃になったアキテーヌは自分の子供をヨーロッパ中の王室に縁組みをさせ、ヨーロッパの母と言われるようになった。これが映画「冬のライオン」のモデルとなった史実である。伯爵といわれる多くの地方領主は、権力闘争などは好まず豊かな経済力を背景に、優雅な生活を送っていたとされる。18世紀の上流社会はフランス語を使ったと云われており、男性伯爵を「ル・コントComte」女性伯爵を「ラ・コンテスComtess」と呼んでいた。

 伯爵夫人と呼ばれるに相応しく、優美で品位と格式を備えたコンテスのバックは大変高価であるが、30年も40年も使用に耐えられるという。手入れが良ければ母から娘へ、そして娘から孫へと受け継いでいける。コンテスの落ち着きをもった伝統的なデザインは、和装、洋装のいずれの装いにも調和する。日本人の着物姿をより美しく、礼節を重んじる場にも相応しく魅せてくれるバックで、和装関係の雑誌等にも度々取り上げられている。冠婚葬祭にも適したアイテムも展開されており、バック本体から留め金具まで、披露宴や喪の席にも調和するものがラインナップされている。コンテスのハンドバックはイギリス王室、スウェーデンや日本の皇室などの世界のロイヤルファミリーや、セレブなご婦人達から高い支持を受けている。日本には64年頃に紹介されてから40年にもなる。従来の製品とは違い伝統織物である佐賀錦のような質感があり、和服に調和するバックとして人気を博するようになった。現在、国内では83年に帝国ホテルにオープンした「コンテスブティック」と、一昨年に旗艦店としてオープンした「コンテス・ゴールドファイル銀座」の直営2店舗と、日本橋三越本店など都内4店舗を合わせて、全国に16店舗を展開。売れ筋はセレブなご婦人達にとっては、お手頃の価格帯である50〜70万円だという。皇太子妃雅子さまがご成婚の時、宮中饗宴の儀でコンテスのバックをお持ちになって話題になった。15日には天皇家の長女・紀宮さまがご結婚される。その時にはどんなバックをお持ちになるのだろうか。


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