「京都市東山知恩院前上ル 一澤帆布製」なんの変哲もないワッペンのようなタグがついたバックが、時代の波に乗ってブランドになってしまった。ミシンで縫った実用的で質素なブランドマークは、華やかなデザインが氾濫する昨今、誠実な経営姿勢が映されるのか若者達を中心に「かっこいいマーク」として、ヴィトンなどのインポート・ブランドを向こうにまわして、京都・知恩院前製として大人気である。
「変わることより、変わらぬことを選んだモノ作り」これがキャッチコピーである。
「ご購入について インターネットではご購入頂けません。一澤帆布までお越しください」
「店頭でのご注文分は、出来上がりまでに約3〜4ヶ月お時間を頂いております」「工房では、少しでも早くお客様のお手元にお届けできるよう製作に励んでおります。お待たせして申し訳ありませんが、ご了承くださいますようお願い申しあげます」「お待ち頂ければ、必ずお手元に商品をお届けいたします」会社からのメッセージである。
「作れるだけしか売らない」「ここでしか売らない」という販売戦略は、まさしく京都商法を地でいっている。シーズンになると「京都特集」を組む多くの雑誌などでは必ず紹介されている。昔の帆布袋を知らない世代には新鮮に感じるのか、タクシーで乗り付ける観光客もいて、大勢が列を作って並び、時には入場制限までされるという盛況ぶりだ。
「ネット販売はしない。卸もしない」と言っているのに、ネットを開くと多くのショップが販売している。店頭で買ったモノを販売しているのだろう。大変な人気である。 一澤帆布工業は一平米8オンス(約227g)以上の厚手の帆布(キャンバス地)で袋やトートバックなどを作るメーカーである。一澤帆布では綿帆布、麻帆布を使用している。
厚手の帆布は重くて硬く、職人は切り株の上で木槌や金槌を使って帆布を叩いて折り目をつける。布端の切り口は必ず始末が必要で、加工に手間が掛かり、湿った場所ではカビが生えることもあり、何かと扱い難い素材である。反面、天然素材である帆布は丈夫で、通気性があり、汗も吸収し、静電気も起きず、タワシで洗う事もできる。
このような素材の特徴を生かして、道具袋や牛乳配達用の袋、集金袋などが原型として作られた。戦時中は兵器のカバーや零戦の搭乗員用バック、落下傘を入れる傘嚢などを作っていた。戦後の登山ブームではリュックや各種テントなどをも作るようになった。
58年に京都大学の山岳部がヒマラヤの高峰チョゴリザの初登頂に成功したときに、一澤帆布の登山用具を使用したことで全国的に知られるようになった。 一澤帆布の初代一澤喜兵衛は、お坊さんの衣を作る家に生まれた。1886年には京都で初めてのドライクリーニング店を始めたり、文明開化時代には神戸の疎開地で刺激を受けてバンドを結成し、無声映画や舞台の興業などで活躍するハイカラ男だったという。
1905年に一澤帆布工業を創業し、帆布袋などを手作り販売するようになった。
二代目常二郎は昭和初期に、当時の価格で家一軒分もの値段がするシンガーの最新型工業用ミシンを購入したことで、扱い難い厚手の帆布が自在に加工できるようになった。
牛乳屋や酒屋で使用する配達用袋、大工や植木屋などの職人達が作業中に腰につけたり、持ち運ぶときに使う道具袋などを製造販売した。これらには屋号や電話番号などの広告が刷り込まれ、当時としては珍しい工夫がされていた。
三代目信夫の時代は直販体制をとっていた事で、お客の要望を直接聞くことができた。いくつかある原型から、お客の希望に合わせた製品へと種類も広がっていった。トートバックなどもシンプルなデザインではあるがカラフルに染色されたものが多くなり、丈夫さと手頃な価格が相まって若い女性達の支持層が一気に増えていった。
四代目は信夫の三男である信三郎が継ぎ、信夫は会長に退いた。信夫は根っからの職人気質で、権威を恐れない反骨精神と、博識で軽妙洒脱な人柄だったそうだ。晩年は京都の顔として多くの雑誌などで紹介されたりしていたが 01年3月に 85才で亡くなった。 会長の信夫が亡くなった時に同社の発行済み株式10万株のうち、会長の保有分6万2000
株を、長男信太郎に 5分の4、四男喜久夫に 5分の1を相続させることが遺言書にしたためてあった。現職社長である信三郎への相続は記されていなかった。
このため信三郎は 01年9月に信太郎と喜久夫を相手に、遺言の無効確認を求めて京都地裁に提訴した。最高裁まで争ったが 04年12月に信三郎の敗訴が確定した。この結果、現職社長の信三郎は株式の過半数を保有していないため、双方の弁護士らの話し合いで 05年3月に臨時株主総会を開く事にしていたが開催が延期されていた。決着を急いだ信三郎は親族らを役員として一澤帆布加工所を別会社として設立したため、今度は喜久夫が臨時株主総会を開くよう訴訟を起こしていた。
父親であった先代会長の遺産相続をきっかけに、実の3兄弟が株式の配分と経営権の継承で争い、事実上二つののれんに分裂する事態となった。
05年12月の臨時株主総会で現職社長である三男信三郎が欠席のまま、他の3名の取締役や監査役とともに解任された。新取締役には長男信太郎と四男喜久夫が選任された。
すでに信三郎は新会社に社員 約70人の大半を移籍させているという。多くのファンを持つ京都を代表する老舗ブランドを巡る騒ぎは、決着まで暫く時間が掛かりそうである。
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