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桃太郎のビジネスコラム 85

☆ 忠犬ニッパーと松下幸之助☆

2006.01.31号  


 1884年にイギリスのブリストルで黒の斑がある白のフォックス・テリアが生まれた。
脚の裏を噛む癖があることから、鋏むという意味のニッパー(Nipper)と名付けられた。飼い主はマーク・ヘンリー・バロードという風景画家であった。ニッパーはヘンリー・バロードと 3年間暮らしたがヘンリーが亡くなり、死後は弟で同じ画家であったフランシス・バロードに引取られた。
1889年にフランシスが家にあったエジソンが発明した筒型蓄音機で、偶然にも録音してあった兄ヘンリーの声を再生したところ、ニッパーは怪訝そうに耳を傾け、飼い主であったヘンリーを懐かしむように聞き入った。フランシスが時間の取れるときに兄ヘンリーの声を聞かせると、何時も同じ姿勢で聞き入るようになった。その姿に心打たれたフランシスはニッパーの様子を絵に書き留め“His Master’s Voice”と絵にタイトルを付けた。
その後ニッパーは8年間フランシスと過ごしたあと11才で死亡した。

 ニッパーが亡くなった 1895年にアメリカではエミール・ベルリナーが円盤式蓄音機を
発明してベルリナー・グラムフォン・カンパニーを設立していた。
1898年にはイギリスでトレバー・ウイリアムスとバリー・オーエンがグラムフォン社を設立し、円盤式蓄音機の販売を始めた。
1899年にフランシスはイギリスのグラムフォン社へ ニッパーの絵を買って貰うために訪
れた。(その前にエジソンの会社に売ろうとしたが、断られたという説もある)グラムフオンの社長であるオーエンはライバル会社の筒型蓄音機を円盤式蓄音機に書き直すことを条件にニッパーの絵を買い取る事にした。(期間が無かったのか、価格が折り合わなかったのか、原画に愛着が有ったのかは不明だが、フランシスは筒型蓄音機に円盤型蓄音機を上書きした。現在、大英博物館にあると云われる原画には筒型蓄音機の痕跡が見えるという)
1900年にベルリナーがイギリスのグラムフォン社を訪れて、この絵を見て会社のトレード・マークにする事を思いつき、アメリカに帰国すると意匠登録をした。カナダでも認められ、同年の暮れにはイギリスのグラムフォン社でもイヌのマークを商標登録した。
翌年にはベルリナーの会社が経営不振となり、エルドリッジ・ジョンソンが「イヌのトレード・マーク」を買い取ってビクター・トーキング・マシーン社を設立し、"His Master's Voice" をアメリカ国内はもとより世界に浸透させていった。
1904年にグラムフオン社は日本でのトレード・マークの独占使用権をアメリカ・ビクター社に譲渡。1911年には "His Master's Voice"の言葉も商標登録された。
1920年にはビクター社がイギリスのグラムフォン社の株の51%を取得して子会社とした。
1927年(昭和 2年)にビクター・トーキング・マシーン社が出資して日本ビクター蓄音器が設立され、ニッパーの "His Master's Voice" も採用されることになった。

 アメリカ・ビクター社の現地法人として設立された日本ビクター蓄音器だが、ニッパーの商標と同じように親会社が転々とした。設立 2年後には親会社の米ビクターが経営不振に陥り、RCA社に吸収合併されRCAビクターが親会社となる。
RCA社は国外展開については合弁企業とする方針だったので、日本ビクターは東芝・三井に出資を要請することになった。満州事変後は日米関係が悪化したこともありRCA社は撤退し、東京電気(現在の東芝)に株式が売却された。第二次大戦前は日産コンツェルンの傘下になったこともあるがすぐに脱退。戦時体制の中で社名を日本音響と改称したが「ビクター」のレーベル名だけは変えることはなかった。
終戦後に日本ビクターと社名変更して再建をはかったが、戦争による空襲で工場や設備が大打撃を受け壊滅的状態になっていた。支援を仰ぐべき東芝も戦後の復興で子会社まで手が廻らず、1953年に日本ビクターは経営危機に追い込まれた。日本興業銀行(現在のみずほコーポレート銀行)が役員を派遣して再建計画を立てたが、GHQにより銀行の株式保有が制限されていたうえに、資本金2.500万円の会社が約4億円の債務超過となっており、そんな会社の再建を引き受ける会社など有るはずがなかった。
日本興業銀行は最後の望みを託して松下電器に話を持ち込んだところ、松下幸之助は日本ビクターの暖簾を無くすことは日本の産業界に取って大きな損失であると判断した。
1954年に松下電器は日本ビクターと正式に資本参加の契約を交わした。当時の松下の資本金は 5億円程度であり、松下電器としても大きな決断を要したできごとだった。
幸之助は日本ビクターの顧客を満足させるのは、ビクターの社員と技術であるとして、経営理念だけを持ち込むようにした。松下電器と日本ビクターが互いに競争して成長していくことを旨としたため、現在でも他の関連子会社とは一線を画した位置づけとなっている。
幸之助は契約の時に「イヌのトレード・マーク」が脳裏に有ったといわれており、国民的アイドルとなっていたニッパーの“His Master’s Voice”のファンの一人として再建を引受けたのだった。

 日本ビクターは戦後「テレビの父」と呼ばれた高柳健次郎を迎え入れ、テレビが商品ラインナップに加わった事で、急速に経営が改善され証券取引所にも上場するようになった。
1976年にはVHS方式のビデオ録画機を開発し、ソニー陣営のベータ方式を撃破したことで第二次成長期に入り、高度成長の時代の風にも乗っていった。
しかし、2003年には世界初の家庭用ハイビジョンビデオカメラ、2004年にも世界初となるハードディスクムービーを開発するなど、映像機器の技術力には定評があるものの、VHSビデオ以後はヒット商品に恵まれない状態が続いている。
2005年度の中間決算では連結売上高3.872億円(前期比5.6%減)経常利益マイナス84億円(同2.2%減)と大苦戦となっている。日本ビクターでは機構改革を実施し、事業カンパニー制を解消して小規模な事業グループに再編して、スピードある経営の実現を目指して再建に取り組んでいる。ブランド・マーク "His Master's Voice" の復活を祈りたい。
 今週は戌年にあたりイギリスで語り継がれる忠犬ニッパーの話と、松下幸之助の倫理観が日本ビクターを救済した事を書いた。近頃は二極化した社会となり一部には心の荒んだ経営となっている企業もあるようだ。戌年の新年を機に忠義とか倫理とかを、私達はもう一度学ぶ必要があるかも知れない。




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