ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 181

☆ モードの女王☆

2007.12.18号  

 著名なデザイナーを数多く輩出しているイタリアのモード界にあって、ミラ・ショーンは正統派ファッションの第一人者として「モードの女王」と称されている。シンプルでありながら、エレガンスな装いを美の基調に求め、完成度の高いモードの創作は、世界のファッション界でも、最高のプレステージを保ち続けている。『ファッションとは、現在に生きることへの追求であり、真の人生を楽しむ行為である』「完全への追求」というファッション哲学から生まれたミラ・ショーンのスタイルは、完璧なまでの質の高さで、世代を超えた多くの人達を魅了している。『ファッションとは、人生そのもの。生き方の表現です。また、着こなしはその人間が、どのように教育されてきたか、自分の人生にどのようなイメージを、持っているかが反映されて来ます。私は自分をよく知っている人が美しい人だと思います。自分自身をよく知り、生きていくビジョンを持つこと。そこから自分のスタイルが生まれて来るでしょう。自分を知るオシャレこそが、真のエレガンスに通じるのです』ミラ・ショーンの云う「エレガンスこそ真の女性美」これこそが彼女のモードに対する哲学であり、創作の源泉なのである。どんなに時代が移り変わろうとも、女性は自分なりの考えを持った生き方、着こなしを忘れてはならないことを、ミラ・ショーンの創作が物語っている。

 ミラ・ショーンは1919年、旧イタリア領のユーゴスラビア・ダルマジオのトルーで裕福な家庭に生まれた。第二次大戦後に、共産主義化した母国を離れ、両親と共にイタリアへ移住した。50年代後半頃には毎シーズン、彼女はクリスチャン・ディオール(既号63.ディオールのシルエット)やバレンシアガの顧客として服を仕立てていた。58年にアルタ・モーダ(高級仕立て服=オート・クチュール)の店をオープンし、ファッション界へのスタートを切った。彼女自身がオート・クチュールの顧客として得た知識や、その特別注文した服に、自らのセンスを駆使して手を加え、当時流行の中心だったパリのデザインを、イタリア流に解釈した創作は大変な人気を呼んだ。65年にはフィレンツェのピッティ宮で、初のコレクションを開き大成功をおさめ、その名が世界に知れ渡ることとなった。ヨーロッパ社交界で名前を知られていたマダム・ショーンの本格的コレクションは、新しい時代の女性デザイナー誕生として、最大級の賛辞が贈られた。古い伝統に固執するあまり、流行の発信地としての覇権を、パリに奪われつつあったイタリアのファッション界を、モードの最先端に甦らせた。66年には、アメリカのニーマン・マーカスより、色彩部門でファッション・オスカー賞を受賞する。この年にはミラノのモンテナポレオーネ通りにブティックをオープンさせる。以後、この通りはミラノの高級ブティック街として発展することになる。さらに、ローマやフィレンツェにもブティックをオープンさせ、翌年にはアメリカでもコレクションを発表。日本には73年に進出し、82年にミラ・ショーン・ジャパンを設立し、世界のファッション・ブランドとしての人気を確立するようになった。85年、イタリア政府よりコメンダトーレ勲章を授与され、ローマ国立ファッション協会からステラディ・ミケランジェロを受賞、ベニス市からはヴイシオーネ・モーダ・コシチューメを受賞する。翌年にもミラノ州議会からリコノ・シェンツァ賞、さらにその翌年にも、イタリア文化発展に寄与したとしてソレマーレ賞、ミラノ市長より市民活動の金賞を受賞している。89年にはイタリア・サッカーチームの公式ユニフォームを制作、92年にもバルセロナ・オリンピックのイタリア選手団の公式ユニフォームを制作した。

 男性がビジネス界で活動するときの、必須アイテムであるネクタイ。英語ではTie、米語ではNecktie、日本語ではネクタイと呼ばれている。だが、伊語など他の言語で主流になっているのは、クラバットCravatte(国によりスペルが違う)と言う呼び方である。2世紀頃、ローマ兵士達が防寒のために首に巻いたウールの布。これがネクタイのルーツと云われている。このフォーカルと呼ばれた布は、戦地へ向かう兵士の妻や恋人達が、愛する人の無事を祈って、何時も身につけるように贈った”お守り”であった。17世紀中頃、ヨーロッパ中を巻き込んだ30年戦争。フランス国王ルイ14世に仕えるべく駆けつけたオーストリアのクロアチア兵が、揃って首に布を巻いていた。その時にルイ14世は側近に“あの兵隊どもが、首に巻いている妙なモノは何だ”と訊ねたところ、側近が“あの兵隊どもは、何者だ”と聞き間違えて、“クラバット(=クロアチア兵)にございます”と答えた。この話が元となって、その首に巻いてある布をクラバットと呼ぶようになったとされる。ルイ14世は、最初は取り外すように言ったそうだが、兵士達が聞き入れ無かった。やがて、闘志をアピールし、しかもスマートな衿飾りに王自身も関心を寄せるようになった。やがて自らもクラバットを首に着け、宮廷ファッションに取り入れた。この話がフランスの粋な婦人達に伝わり、一般市民へも普及するようになった。19世紀に入り、ファッションの主流はフランスからイギリスへと移行した。ロンドン・ファッションの軽快さにあわせ、クラバットの結び方もシンプルになり、Tieという言葉が使われ出した。当時の上流社会で暮らしていたジョージ・ブライアン・ブランメルは、通称ボー・ブランメル(伊達男ブランメル)と呼ばれ、大変なオシャレだった。社交界へ出かける前には、スカーフの巻き方を試行錯誤し、半日以上も鏡の前で時間を費やしたとの話が残っている。ファッション・アイテムとしての人気を裏付けるエピソードである。その後、イギリス貴族ダービー卿が所有する、ダービー競馬場に出かける男性達は、オーナーの服装を見習い、細型の結び下げのタイをつけて行くようになった。これがステキに見えたことからダービータイという呼称が付けられた。現在、私たちが見慣れているネクタイの原形になったと云われる。やがてクラバットの結び目だけをファッションにした蝶ネクタイが登場。1870年代になると、アスコット競馬場に集まる紳士達が、新しいネックウエアーとして、アスコット・タイを登場させた。日本におけるネクタイの歴史は、1851年ジョン万次郎帰国とともに日本に渡来したと云われている。1884年(明治17年)帽子商である小山梅吉の手による蝶ネクタイが国産第一号となる。1920年代になって洋装の普及に伴い、一般市民へと浸透するようになった。その後、流行に合わせた形や色柄に変化をみせながらも、メンズ・ファッションに欠かせないアイテムとして、そのマーケットに拡がりをみせるようになった。

 ミラ・ショーンのネック・アイテムは、団塊の世代にとって憧れのアイテムである。若かった時代には高嶺の華だったネクタイも、今なら手を出せそうな価格帯である。色柄も控えめな派手さで、ブランドが一目で判るお洒落な縁取りがたまらなく良い。さりげなくオシャレをする紳士には、欠かせない逸品である。色柄が表裏2種類のリバーシブル・ネクタイは、出張族の便利さと、大人の遊び心もチョッピリ楽しませてくれる。この季節に必需のマフラーは、チュット目には地味な感じがするが、使えば使うほど愛着を感じさせる。飽きのこないデザインも大変な人気となっている。女性ファンの襟元を飾るスカーフもステータスを感じさせる逸品が揃っている。現在、人気を呼んでいるコートドレスはイタリア製の生地を使用しており、ミンク衿はクラシカルなデザインだが、美しく高級感溢れる大人のファッションを演出してくれる。ヨーロピアン・エレガンスをベースにした上品でお洒落な装いは、どのようなシーンでも活躍できるアイテムである。ミラ・ショーンのセカンドラインであるブルーラベルでは、シルクウールのフェミニンなデザインニットが、大人の甘さをさりげなく魅せるキュートなイメージに仕上げてある。イタリア製ウール素材のジャケットも、ボトムラインを問わず、合わせやすいデザインになっており、細身で品の良さが窺える若々しいデザインが魅力的だ。彼女が今から40年前に提案した「気品があり活動的」「世界中を駆け巡り、仕事と社交界をスマートに行き来する」と言った女性像は、当時の彼女そのものであった。現在においてもイタリアモード界で「モードの女王」と称されており、格調の高さと気品溢れる最高級プレタポルテは、現在に至るまで色褪せることなく、高い人気を集めるブランドとしてファンの憧れとなっている。


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