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女性達の間で、憧れの高級ジュエラーとして、広く認知されているイタリアの名門ダミアーニは、数年前よりメンズ・ジュエリーとしても注目され始め、オシャレな男性達の間でも、その名が広く知られるようになった。ダミアーニはイタリアン・ジュエリーの中心地であるヴァレンツァで、1924年に宝飾技師エンリコ・グラッシ・ダミアーニによって創業された。彼の豊かな表現力と創造性は、宝飾技師としての熟練した技巧に裏打ちされ、当時の貴族や名士達を魅了し、着実に顧客を増やしていった。やがてジュエリー界のオスカーと云われる「ダイヤモンド・インターナショナル賞」を受賞する。その後も欧米ブランドとしては、最多の18回も受賞し、世界中のVIPを魅了するとともに、常に畏敬の念を持って語られる存在となった。後継者となったダミアーノ・グラッシ・ダミアーニは、強固な実業家精神で一家の伝統を受け継いだ。時代を超越した普遍的なジュエリーを創造したいという思いから、研究開発に投資し、常に新しい技術の考案に努めた。今日においても、多くの技術者を抱えた工場で自社一貫生産を堅持し、クラッシックをベースにしつつも、絶えず斬新で高品位なジュエリーを、世に送り出している。
二代目のダミアーノが1996年に急逝した後は、妻のガブリエラが会長になり、長男のグィド・グラッシ・ダミアーニを中心に家族が結束して、今日のダミアーニを支えている。三代目のグィドを筆頭とするダミアーニ・ファミリーが、今後のダミアーニをレイアウトしている。グィドはCEO(最高経営責任者)として数字に強く経営の才があり、姉のシルヴィアは美的センスの優れたデザイナーとして、弟のジョルジョは父の後を継いで、製造部門の責任者として活躍している。両親が毎日深夜までジュエリーを製作していた工房で、宝石の中で幼年時代を過ごしてきたダミアーノ姉弟にとつて、ジュエリーを扱う仕事は、まさに天職でもあった。イタリアン・ジュエリーの本場で、伝統ある技術で美しいものを創り、世界中の人々にジユエリーの素晴らしさを伝えたい。そんな思いで結ばれた家族だからこそ、暖かく豊かな本物の美を創りだせる。イタリア民族特有のファミリー意識は、血のつながりこそ無くても、ダミアーニ・ファミリーとして、職人達も代々ダミアーニ家とパートナーシップを作り上げてきた。すべてのジュエリーを手作りで仕上げるダミアーニにとって、熟練した技術と美への熱い思いを持った職人達は、同士であるとともに家族そのものでもある。
『貧しいお針子のジョバンナ(ソフィア・ローレン)と、電気技師アントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、美しいナポリの海岸で出逢い恋に落ちた。だが、二人には戦争という暗い影が忍び寄っていた。ナポリで結婚式を挙げ、ハネムーンの計画を立てたが、アントニオの徴兵日までは、僅かな日数しか残されていなかった。新妻と離れがたいアントニオは、精神病を装い徴兵を逃れようとした。しかし、それが露見してしまい酷寒のソ連戦線に送られてしまった。厳寒の地でイタリア兵は次々と倒れていった。アントニオは死の寸前で、ソ連娘のマーシャに救われた。年月が過ぎ、アントニオの母と淋しく暮らしていたジョバンナのもとへ、アントニオの行方不明という通知が届いた。この知らせを信じられない彼女は、力尽きた夫を置き去りにした復員兵を探しだして話を聞いた。それでも夫の死を信じられないジョバンナはソ連へ出かける決心をした。車窓から見える一面のひまわり畑は、かつては戦場で、その下にイタリア兵やロシア人捕虜がナチスの命令で、穴を掘らされ眠らされている場所であった。モスクワに降り立ち夫の写真を胸に捜し回る執念が、片田舎の一軒家に導いた。幼い女の子がいるその家の妻マーシャは、ジョバンナの持つ写真を一目見て全ての事態を悟った。マーシャは列車で仕事から帰るアニトニオを迎えに行く時間となり、ジョバンナもついて行った。列車が駅に到着し、驚きと懐かしさでジョバンナを見るアントニオ。やはり夫は生きていた。それに自分とは別な女と生活を共にし、子供までいた。耐えきれないジョバンナの胸は千々に乱れ、動き出した列車に飛び乗り咽び泣いた。あの日からアントニオは鬱ぎ込む毎日だった。マーシャは心配していた時が、来たことを理解した。アントニオは意を決っしてジョバンナを訪ねる事にした。夜になってイタリアに着くと嵐だった。はやる思いでアントニオは電話をかけたが、ジョバンナは逢うことを拒否。「・・それで良いんだね。では、逢わずに帰る」絶ちがたい思いの中で、アントニオは列車がストで動かないことを知り、再びジョバンナに電話をして「一目逢って帰りたい」と訴えた。「・・千キロ先まで雪に埋もれていた。見知らぬ家で気がついた。見知らぬ女が命を救い、尽くしてくれた」「あなたは御礼を言って去るべきだったのに・・、子供までつくって・・」「人の死を見ると考えも変わる・・、自分は一度死んだ。・・マーシャに小さな幸せを見つけた。・・何もがこんな風に・・戦争は残酷だ」沈黙が続いた後、アントニオは「もう一度一緒になろう。今も愛している」「・・そんなの無理よ」隣室から子供の泣き声がした。アントニオは我に返った。「子供を犠牲にしていいの」既にジョバンナも新しい生活が始まっていたのだった。「名前は」「アントニオ」「僕の名を」「違うわ、聖アントニオよ」二人はお互いの新しい生活を、大切にしなければならなかった。出征する夫を見送り、運命の分かれ道となったミラノの駅で、ジョバンナは万感の思いでアントニオを見送った。もう、再び逢うことは無いであろう。遠ざかる列車が、溢れる涙で霞んで、そして小さくなり、見えなくなった・・・』世界中の女性の涙を搾り取ったと云われる、1970年のイタリア映画「ひまわり」のあらすじである。エンディングではロシアひまわりの広大な群生が、再びクローズアップされた。監督のビットリア・デ・シーカに「イタリアの母」と、言わしめたイタリアを代表する女優ソフィア・ローレンの代表作である。劇中のジョバンナの子供は、ソフィア・ローレンと、夫であるイタリアの大プロデューサー、カルロ・ポンティとの実子である。イタリア映画界きってのプレイボーイだったマルチェロ・マストロヤンニとは、いくつかの作品で共演し、名コンビとして評価されている。「昨日・今日・明日」では、“カカア天下とダメ男”を見事に演じて、日本でも多くのファンを獲得した。76年には原付バイクのホンダ・ロードパル(呼称ラッタッタ)のCMでも大いに知名度を上げた。
3月6日に東京(既号130.世界最高級の街)・銀座並木通りで、ダミアーニの旗艦店がオープンした。これに合わせてダミアーニの、広告塔であるソフィア・ローレンが約30年振りに来日して、オープニング・セレモニーを華やかに飾った。今回のショップオープンに合わせて、06年よりスタートしている「ソフィア・ローレン・コレクション」より、日本限定商品も販売した。代表取締役副社長兼商品開発部門責任者のジョルジョ・ダミアーニは「アジアのビジネスにおいて、日本市場が非常に重要な役割を果たしている」と語り、今後は香港・マカオ・台湾市場への展開も精力的に取り組む意向を示した。代表取締役副社長兼デザイン・コミュニケーション部門責任者のシルヴィア・ダミアーニは「アカデミー賞やセレブリテイとの交流を重ね、さらなるプレステージや人々が憧れるようなブランド価値を、様々なプロモーションによって表現したい」と語っている。2月に開催されたアカデミー賞では、女優ティルダ・スウィントンがダミアーニのジュエリーを身につけて、助演女優賞を受賞。さらに俳優のブラッド・ビッドとのコラボレーション「D.SIDE」も好調に推移している。シルヴィアは「エレガンスの表現の一つとして、今後もダミアーニとセレブリテイとの関係は、さらに強固になっていく」と語る。洗練された優雅なダミアーニのジュエリーは、世界中の有名人に愛されている。マルチェロ・マストロヤンニとカトリーヌ・ドヌーブ(既号176.C・ドヌーブをイメージ)の愛娘キアラ・マストロヤンニや、ロッセリーニ監督とイングリッド・バーグマン(既号182.伝説の靴職人)の愛娘イザベラ・ロッセリーニらを始めとして、ジェニファー・アニストン、グウィネス・パルトロウら多くのセレブ達をファンに持つ。今日では皇族や首相、ハリウッド・スターといった各界の著名人達が、ダミアーニの顧客として定着している。ミラノ、ニューヨーク、パリなどの主要都市に展開しており、日本では98年よりダミアーニ・ジャパンが、全国有名百貨店のインショップや直営店をハンドリングしている。
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