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カルバン・クラインはアメリカを代表するファッション・デザイナーである。アメリカン・トラディショナルを基本とし、シンプルでシャープなデザインのなかにも、洗練された技術が光るキャリアウーマン好みの、ニューヨーク・スタイルとしてスタートした。機能的で落ち着いた色づかいは、キャサリン・ヘップバーン(既号75.ドイツの伯爵夫人)の若い頃をイメージしたような、飾らない服造りは瞬く間に受け入れられ、自らの名を冠したファッションは世界的なブランドに成長した。カルバンは1942年にニューヨーク州ブロンクス区に生まれ、ユダヤ系ハンガリー移民の家庭で育った。5歳の頃から服飾デザインに関心を持っていたと云われる。20歳の時にニューヨーク州立ファッション工科大学短期大学部を卒業。この頃、父親が経営する食料品店で、ファミリー・サークル誌を拾い、偶然にも自分がデザインした女性用コートを見て進路を決断。その後、コートとスーツのメーカーで働くようになる。この頃のカルバンは今流に云うと、茶毛を格好良くオールバックにしたイケメンタイプだったらしい。68年に幼馴染みで親友であったバリー・シュワルツと「Calvin Klein」社を設立。この時、設立資金が無くて、シュワルツの父親から1万ドルの借金をしたという。このコートを扱うアパレル会社は、間もなくレディースウェアーのプレタポルテ・コレクションを展開するようになったが、3着のドレスと6点のコートからのスタートだった。
70年代になって経営の多角化に乗り出し、72年にスポーツウェアー部門を設立。同年3月には化粧品・香水部門の会社を設立し、写真家アーヴィング・ベンとのキャンペーンも成功した。73年には過去最年少でコティ賞を受賞し、75年まで3年連続を含め、4度の受賞をしている。この賞はコティ・アメリカ・ファッション批評家賞のことで、ファッション界のアカデミー賞とも云われ、アメリカ・ファッション界では最も権威があるとされる。過去の受賞者にはラルフ・ローレンや、ダナ・キャランなど錚々たる顔ぶれが並んでいる。70年代後半にはジーンズや下着を手掛けるようになる。ジーンズの広告キャンペーンで、かつてはエリザベス・テーラーを凌ぐ美貌とまで云われた、スター女優ブルック・シールズを起用し大反響を呼んだ。70年代から80年代に、カルバン・クライン社の繰り出す広告は、常にセクシャルで議論を巻き起こしていたという。83年にはCFDA賞(カウンシル・オブ・ファッション・デザイナーズ・オブ・アメリカ)を受賞。92年にはセカンドライン「CK Calvin Klein」を創設。翌年にはメンズ・レディース両部門で、デザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。95年、ニューヨーク・マジソン・アベニューに旗艦店をオープン。ヨーロッパで最初の「Calvin Klein collection」を開催する。01年にアメリカ市場から「CK Calvin Klein」を撤退。一方、日本の市場ではダナ・キャランのセカンドライン「DKNY」と同様に、カルバン・クラインと云えば「CK Calvin Klein」の方が、人気が高いようである。02年にはCalvin Klein社を4億3000万ドル(520億円)で、アメリカのアパレル会社フィリップス・バン・ヒューゼンに、売却してPVH傘下に入る。03年になり、カルバンはデザイナーを引退した。
06年のアメリカ映画「ボビー」は、公開直後から大反響を呼んだ。68年6月5日未明にボビーの愛称で親しまれ、カリフォルニア州予備選挙で勝利した次期大統領候補ロバート・F・ケネディ上院議員が、アンバサダーホテルで銃弾に倒れた。この事件が起こった日に、ホテルに居合わせた人々を描いた作品である。80年代から俳優として活躍し、監督業としても積極的な活動をしていたエミリオ・エステヴェス入魂の一作。幼いながらもボビー暗殺の日を、鮮明に記憶していたエステヴェスが、自らも脚本を手掛け、見応えのある作品に仕上げている。製作に対するエステヴェスの、執念を感じたアンソニー・ポプキンスが製作の指揮を買って出るや、マーティ・シーンやシャロン・ストーン、デミ・ムーアなど、多数の俳優達がギャラは二の次と集まった。それに80歳にもなろうとするハリー・ベラフォンテまで駆けつけ、ホテルの元ドアマンを演じた。日本では56年に「バナナ・ボート」が大ヒットしたハリー・ベラフォンテは、この映画でも重要な意味合いを持つキング牧師と、個人的に親交があったと云われる。多彩な顔ぶれの中、主役級の電話交換手役で黒人女優ジョイ・ブライアントも出演。映画の反響が大きかったのは、この事件の謎が解明されていないばかりか、63年11月22日にテキサス州ダラスで兄ジョン・F・ケネディが、暗殺された事件も真相は闇の中だ。兄弟の父ジョセフ・P・ケネディは禁酒法時代に、密造酒の製造販売で財をなし、のし上がった。この背景にはケネディ家とマフィアの関係があったと云われている。ジョン・F・ケネディが大統領になる前も、なってからもマリリン・モンロー(既号136.試作品番号No5)と、不倫関係にあったことは有名な話である。大統領にマリリンを紹介したのがショービジネス界のドン、フランク・シナトラだった。シナトラは生涯に亘ってイタリア系マフィアとの黒い噂が絶えなかった。ショービジネスの世界を裏で牛耳るサム・ジアンカーナとも、深い関係があったらしい。ジアンカーナの情婦であったジュディス・キャンベルは、シナトラのガールフレンドだった時期もあったと云われる。カルロ・ガンビーノやラッキー・ルチアーノなど、歴代の大ボスとの交流も、FBIの2400ページに亘る資料で公表されている。シナトラにマスコミがマフィアとの関係を、インタビューすることはタブーであった。人気が低迷していたシナトラが、アカデミー助演男優賞を得た映画「地上より永遠に」で復活した経緯が、映画「ゴッドファザー」のジョニー・フォンテーン役として描かれている。原作者のマリオ・プーゾが知人を介してシナトラに逢おうとしたら、Fuck Off(失せろ)と怒鳴ったのは有名な話だ。ジョン・F・ケネディは大統領に立候補した際、ジアンカーナに選挙運動の協力をして貰えるよう、関係の深かったシナトラに依頼したという。シナトラも労組票などの取り纏めに協力したが、ジョン・F・ケネディは当選後、露骨にシナトラを避けるようになった。フーバーFBI長官がケネディ家と、マフィアの関係に注目したため、司法長官に就任した弟のロバート・F・ケネディが、ケネディ家とマフィアの関係をもみ消すため、マフィアの取り締まり強化に乗り出したと云われる。この仕打ちに激怒したシナトラは、反ケネディに傾き、ライバルのリチャード・ニクソンとの関係を築き上げた。これらの話が兄弟の暗殺事件に、シナトラやマフィアが、何らかの役割を果たしたと、噂される根拠となった。映画「ボビー」の背景には、現職大統領と大統領候補の暗殺、ジョン・F・ケネディJrの飛行機墜落事故死など不幸が続くケネディ家、政界やショービジネスにマフィアが絡む闇、この事件の2ヶ月前に起きたキング牧師暗殺にも見られる人種差別、不法移民や麻薬の問題、そして、当時アメリカが泥沼にはまり込んでいたベトナム戦争など、数々の社会問題があった。
6月28日、カルバン・ファンのジョイ・ブライアントが、スタントマンの恋人ディビット・ポープと挙式を挙げた。友人達に送られた招待状には「マノロ(・ブラニク=有名な靴のブランド)は、履いてこないでね」と書かれていたそうだ。今が旬の女優にしては、100人ほどの出席で、意外なジミ婚だったようだ。カルバン・クラインは80年代中頃からコレクションのサンプルや使用素材をカンザス州立大学へ寄贈するなど、文化事業に対しても精力的な活動をしている。7月12日にはヴェニティ・フェア誌と共同スポンサーとなって、エイズ研究に取り組む非営利団体のチャリティーパーティを開催した。写真家のスティーブ・クライン、デザイナーのフランシス・コスタやダナ・キャラン、スタイリストのレイチェル・ゾーはCalvin Klein collectionを身につけて出席。勿論、新婚のジョイ・ブライアントも駆けつける盛況だった。Calvin Klein社では04年より後任デザイナーに、68年にブラジルで生まれたフランシスコ・コスタが勤める。グッチでトム・フォードの下、イブニングウェアーのシニア・デザイナーを勤め、02年にカルバン・クラインに入社。06年にはCFDAよりメンズウェアー・デザイナー・オブ・ジ・イアーを受賞する。Calvin Klein社はアパレルの他に、時計、サングラス、コスメティック、ジュエリー、インテリアなどを手掛ける。時計は世界最大のメーカー・スオッチと提携、下着と香水は世界的に高く評価を受けている。日本では75年に伊勢丹から、アメリカ人デザイナー第一号として作品が発表されている。
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