ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 227

☆ ランバンとエルバス☆

2008.11.12号  

 母娘が手を取り合っている印象的なロゴマーク。誰もが幾度となく目にしてきたランバンのロゴマークである。1907年に撮影されたジャンヌ・ランバンと、その娘マリー・ブランシュ(後にポリニャック伯爵夫人となる)の写真を元に、その頃時代の寵児として注目を浴びていたアーティスト、ポール・イリブの、手によってイラストに起こされた。母娘が手作りのソワレを纏って、舞踏会に出かけようとしているシーンである。
ジャンヌ・ランバンは1867年にフランス・ブルターニュで、ジャーナリストの娘として生まれた。幼い頃からファッションに興味を持ち、家計を助けることもあって、13歳の時からパリの帽子店で働くようになった。1889年にパリのフォーブル・サントノーレで、帽子デザイナーとして開業。ランバン22歳の時だった。その後に娘マリーのために、ゴールドのボタンがついたブレザー、フリンジをあしらった白てんのコート、柔らかなフォルムの袖無しワンピースなどを縫い上げたことが転機となった。帽子の顧客達が、マリーの為に造った子供服を見て、自分の娘にも造って欲しいと注文が殺到した。それからは自然と顧客から婦人服の注文が舞い込むようになり、1890年には親子服の専門店になった。やがて若い女性向けの、イブニングドレスなども手掛けるようになり、本格的にレディースウェアーに参入していった。
東洋的なシルエットや民族的なディテールを取り入れ、古い美術や絵画からもヒントを得た、エレガントなスタイルを確立。スパンコールやビーズを使った巧みな刺繍技術、それを用いて花や木の葉、リボンなどをモチーフにした装飾を施したドレスが大好評となった。
なかでも刺繍のピクチャードレスが称賛を得て、ビーズの繊細な刺繍細工はトレードマークにまでなっていく。顧客となった女優達のプライベートなワードロープ、それに舞台や映画衣裳なども手掛け、各国の王侯貴族や上流社会の女性達にも名声が広がる。やがて仕立ての良さや厳選された素材によって、ランバン・スタイルは世界にも届くようになる。

 ランバンは1920年代になると精力的にコレクションを発表。ビロード、ラメ、キルティング、チュールやレースなどに、マットとシャイニーのコントラスト、黒とフレッシュなカラーのコントラスト、それに異素材の組み合わせなど、様々な試みが人々を魅了した。
特にフラ・アンジェリコの絵画から着想し、ブランド・カラーにもなっている「ランバン・ブルー」は、透明感のある青色で、アーモンド・グリーンなどと共に絶妙な色彩を生みだし、多くの作品で使用された。
1925年にはフレグランス部門を創設。翌々年にはランバンの代表的香水「アルベージュ」を発表。「美しい音楽が人生に与える至福の時」のメッセージを添えて、一人娘のマリー・ブランシュに贈ったと云われる。当時のランバンのインテリア・デザイナーのアルマン・ラトーのデザインしたボトルには、母娘をモチーフしたロゴが記された。この香水はシャネルのNO5(既号136.試作品番号No5)と並び賞されるほどの大ヒットとなる。このロゴは香水の種類に関係なく、その後も使用され続けており、現在でも「エクラ・ドゥアルベージュ」に使用されている。
1926年には紳士服部門も設立し、事業としては順調に拡大していった。女性としては初めてのレジヨン・ドヌール勲章を受ける。1937年にはパリ・オートクチュール協会の会長を努め、ファッション界に大きな貢献を果たした。
ジャンヌ・ランバンの引退後もメゾンは継続され、アントニオ・カスティーヨ、ジョールフランソワ・クラエ、メリル・ランバン、クリステイーナ・オルティスなどの時代を代表するデザイナーが就任していた。現在は2001年に就任したアルベール・エルバスが努める。

 アルベール・エルバスは1961年にモロッコ・カサブランカで生まれた。10歳の時にユダヤ人の両親に連れられて、イスラエル・テルアビブに移住。父はイスラエル国籍で床屋を生業としていた。母はスペイン国籍でアーティストだった。父を幼少の頃に亡くしたため、母親の手で育てられる。兵役が終了するとファッション学校で学び1988年に卒業。卒業後にわずか800ドルのお金を手にして、青雲の志を抱いてニューヨークへ渡った。
渡米後の2年間は生活のため、ブライダル関連企業で働くが、彼の才能を満足させるものではなかった。その後はアメリカの上流階級層の顧客を多く持つ、ジェフリー・ビーンの下で7年間に亘り修行を積む。ここでの実績が認められて、97年になってギ・ラロッシュのプレタポルテ部門に、ヘッドデザイナーとして迎えられた。ブランドの歴史を尊重するも、新しい活気に満ちたデザインを加えたことで大成功を収める。
98年にはイヴ・サンローラン(既号176.C・ドヌーブをイメージ)から直々の誘いで、プレタポルテ部門リヴ・ゴージュでレディースを担当。サンローランの引退後は、サンローラン本人からアーティステック・ディレクターに就任することを要請されていた。しかし、この時期にイヴ・サンローランはグッチ(既号127.ブランド商品の元祖)に買収され、グッチはトム・フォードを指名したため、エルバスはイヴ・サンローランのトップデザイナーに就任できなかった。そのことでイヴ・サンローランを、1年ほどで去ることになる。
その後は短期間ではあったが、ミラノのブランドであるクリッツアでデザインを担当し、エルバスはここでも絶賛を浴びた。
ランバンのクリエイティブ・ディレクターに抜擢されて初めてのコレクションでは、20年代調のフラッパーを思い出させるスパンコールに、ゆったりと縫いつけられたリボン等を発表した。ここでも創業者ジャンヌ・ランバン調のデザインを彷彿とさせるものがあり、大きな称賛を得た。2007年にはレジヨン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章。エルバスはランバンという、自らの才能を発揮できるステージを得、またランバンはエルバスの活躍によって再び快進撃のレールに乗った。

ランバンは2008年になって、アクネジーンズとのコラボレーションで、デニムのコレクションを発表。このラインはデニムの素材を活かしたパンツ、ドレスやジャケット、コートもトレンチやタキシードタイプのものまで、幅広く取り揃えて大きな話題となっている。また、メンズ・プレタポルテには2006AWから、初めて参加している。アルベール・エルバス監修の下で、クリスチャン・ディオールでディオール・オムを統括していたエディ・スリマンのアシスタント・デザイナーだったルカ・オッセンドライバーが担当している。彼はケンゾーに籍を置いたこともあり、ユニークなシルエットを提案することで、注目を集めている。特にラックスシルエットなどは、他のブランド・コレクションにも大きな影響を与えている。
現在の展開はレディースやメンズだけでなく、毛皮やランジェリーなどの取り扱いアイテムも幅を広げ、服飾以外でもインテリアなどに進出。ライフスタイルそのものをサポートするグローバル・ブランドへと拡大している。日本での展開は伊藤忠商事がマスターライセンシーとなっている。
東京・銀座には「銀座ランバン」と「ランバン ブティック銀座店」を出店。銀座ランバンでは1階から5階まで全てがランバンという、ファンにはこの上なく嬉しいショップとなっている。各階はそれぞれ雰囲気の違うフロア展開を意識しており、1階はギフトとしても人気のあるネクタイやスカーフなどの小物。2階はレディース、3階と4階はメンズ、5階はオーダーメイド・サロンとなっている。お奨めアイテムは約160種類の生地が揃っているイル・プール・エル・オーダーメイドシャツで、\15.000からオーダーできる。パリのエスプリを感じさせるブティック・コンセプトに基づいて、贅沢でゆとりのある空間を提供している。
ランバンにおける東南アジアの、旗艦店となっているランバン ブティック銀座店は、外壁にある約3000個のアクリル象限を、“冷やし嵌め”という技術を採用しており、造船職人の細やかな手作業によって仕上げられている。この工法は特許を出願しており、設計は建築家の中村拓志が担当した。
ランバンでは「着ている服ではなく、その人らしい印象を残す服を創っていく」としている。これこそがジャンヌがデザイナーとして生涯貫き通したエスプリであり、そのクチュール精神は現在もしっかりと息づいている。創設から120年になろうとするパリ最古のメゾンである。


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