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五稜星のマークは青春のシンボルだった。1955年に公開された映画「理由なき反抗」と「エデンの東」に主演し、そして翌年の「ジャイアンツ」にも主演してクランクアップ後に、公開を待たずに他界したジェームス・ディーン(既号154.ジェームス・ディーンが愛した車)。我らの永遠の青春スターは「ジャック・パーセル」の愛用者だった。今では2度のアカデミー賞を獲得して、大スターとなったダスティン・ホフマンも、1967年に公開された若き日の映画「卒業」などで「コンバース」を履いていた。ステージアクトで魅せるロック・ミュージシャン達にもファンは多い。パンクロックの教祖と仰がれたセックス・ピストルズのシド・ヴィジャスや、グランジロックの代表的グループであるニル・ヴーナの、中心的存在となっているカート・コバーンも、コンバースの愛用者である。
コンバースは1908年にマーキス・M・コンバースが米国・マサチューセッツ州モールデンで「コンバース・ラバー・シュー・カンパニー」を設立。雨や雪でも作業しやすいラバーシューズを製造したことから、100年に亘る歴史がスタートした。
現在も多くのバスケットボール・プレーヤーに愛用されているコンバースは、1917年に発売された「キャンバス・オールスター」にさかのぼる。このモデルはバスケットボール専用シューズとして開発され、当時のスター選手チャック・テイラーに愛用されたことから、認知度を高めていった。チャックは現役を通して、このモデルを履き続け、選手引退後も改良のアドバイスを提供した。やがてチャックの名はアンクルパッチに記されるようになり、バスケットボールでは世界初のシグネチャー・モデル(有名アスリートの名を冠したスポーツ用品)となった。このオールスターは2005年までの販売累計数が8億足を超える歴史的ベストセラー商品となる。フォーマットの基本的部分は1940年代と同じであり、当初の製品設計が如何に優れていたかを物語っている。星をかたどったアンクルパッチは、一見デザインモチーフと思われがちだが、これはアスリート達のくるぶしを、保護する補強パーツとしてつけられたもので、単なる飾りではないのである。
第二次世界大戦後の1946年に、現在のプロバスケットボール・リーグの前身となるBAAが発足。試合では選手の大半がオールスターを履いていたと云われ、1970年代にはプロ選手の、8割以上の選手が履いていたという。現在も多くの選手の足下を支えている。
「ジャック・パーセル」は1935年に発売された。1932年から14年連続でバドミントンの、世界チャンピオンだったジャック・パーセルが、開発に参加したのが商品名の由来となっている。ヒール部分のロゴマークが、口髭に見えることから、ヒゲの別名を持っている。
また、トゥの部分が、微笑む口元のようにも見えることから、スマイルの異称も持つ。
「スキッドグリップ」は1940年、当時の人気スポーツだったテニス専用シューズとして開発された。シンプルなスタイルとデザインは多くのプレーヤーに愛用された。
「ワンスター」は1974年にレザー製のバスケットボール・シューズとして登場。側面に星マークをあしらったこのシューズは、74年から75年の僅か2年しか生産されず、70年代の幻と呼ばれた。上質のレザーを素材に、その出来映えは伝説にまでなっている。
「プロレザー」は1976年に発売された。1970年代から80年代にかけて、米国のプロバスケットボール界を代表するスーパースターで、ダンクシュートを広めたジュリアス・アービングのお気に入りシューズだった。アービングに愛用されたことで人気商品に育った。
「ウエポン」は1980年代に、マジック・ジョンソンやラリー・バードといったトップリーグの両巨頭選手が、このシューズを履いてコート上を走り回り、そして舞った。広告戦略ではこのライバル同士を起用して話題を集め、世界で400万足を売る大ヒットとなる。
マイケル・ジョーダンを擁して90年代に黄金期を迎えたシカゴ・ブルズで、ワイルドなプレーが人気を集めて、悪童と呼ばれたデニス・ロッドマン。彼もコンバースが大のお気に入りで、シグネチャー・モデルを数多く出している。
1956年にボクシングの世界ミドル級チャンピオン、ローキー・グラジアノの伝記映画「傷だらけの栄光」が公開された。原作はグラジアノ自身とローランド・バーバーの合作によるベストセラー小説。監督は巨匠ロバート・ワイズ。音楽はブロスニロー・ケイパーが担当。主題歌はサミー・カーンが作詞して、ペリー・コモが歌った。主演は9月26日に惜しまれて逝った名優ポール・ニューマン。彼が初めて主演に抜擢された出世作だった。
『ニューヨーク・イーストサイドの貧民街で育ったロッキーは、金に困ると仲間を誘って盗みを働く少年だった。ある時、街の不良団と喧嘩して感化院に送られ、やがて徴兵となったが、一日目に上官を殴り脱走した。ロッキーはスティルマン体育館へ行き、ボクサーを志したが、軍に見つけられて刑務所送りとなる。しかし、そこでボクシングを習うことになり、自分の進むべき道を見つけた。ロッキーは出所した後、妹の友人と知り合い結婚することになる。20歳までに8年間も感化院と刑務所で過ごしたロッキーも、愛する伴侶を得て、愛娘も授かり希望の光が見えてきたとき、トニー・ゼイルと世界選手権を戦うことになった。しかし、刑務所時代に知り合った男の、八百長依頼を断ったことから、試合をボイコットされ、新聞にも前歴の悪しざまを書かれる不運に見舞われた。失意のロッキーを賢明に支え続ける妻と、ロッキー自身の努力が報われ、1947年に改めてトニーに挑戦。
そして、ついに念願のチャンピオン・ベルトを手にする。死闘を裏付けるような、傷だらけの顔となったロッキーが、勝利の喜びに愛娘を高々と抱き上げ・・・』
この映画が公開されて20年後、この映画をモチーフにして一人の若者が、脚本を書いて映画会社に持ち込んだ。テーマは「ボクシングに生きる若者の孤独と不安、家族の愛、そして我が身の貧しい生い立ちを振り返った時、真の勝利者とは・・」。この若者もニューヨークの貧民街で生まれ育ち、両親の離婚をきっかけに素行不良となり、高等学校修了までに14の学校から放校処分となった。マイアミ大学の演劇部に入学するが、授業料滞納で中退。
ニューヨークに戻り俳優を志すも、ポルノ映画や端役ばかりで、日銭を稼ぐ極貧生活が長く続いた。1975年に世界ヘビー級タイトルマッチ、モハメド・アリ対チャック・ウェツプナー戦に感動し、脚本はボクシングを題材とした。映画会社は脚本を気に入り、主役はロバート・レッドフォードなどの大スターを起用しようとした。だが、若者は自分を主役にしないなら、脚本は渡さないと強硬に主張。若者の意見は通ったが、大スターの出演でないため予算は低く、僅かな映画館でしか上映されなかった。しかし、映画は徐々に評判となり、1976年の第49回アカデミー作品賞、監督賞、編集賞を受賞するヒットとなった。
この年のゴールデン・グローブ最優秀作品賞も獲得。この脚本を書いた若者が、シルヴェスター・スタローンであった。彼も映画「ロッキー」が出世作となり、現在は米国映画界を代表するアクション・スターとなって、アメリカン・ドリームを体現した。
この映画の中で、ロッキーがフィラディルフィア美術館の階段を駆け上り、朝日に向かって両手を突き上げるシーンがある。この映画史に残るシーンで。ロッキーの足下を固めていたのが「CONVERSE」であった。この地に建つロッキーの銅像には、コンバースの足形も刻み込まれている。
コンバースは2001年に連邦破産法11条(日本における会社更生法)の、適用を申請して経営破綻した。しかし、コンバース・ブランドはつまずいても、転びはしなかった。
再建に伊藤忠商事が資本参加して経営をテコ入れ、翌年には伊藤忠商事によりコンバース・ジャパンが設立された。2003年に米スポーツ用品大手のナイキに買収され、再び甦ることになった。そして今年、創業100周年を迎えた。
1980年から90年代にナイキは、ハイテクを詰め込んだバスケットボール・シューズで得た人気で、市場を席巻していた。しかし、昨今はクラッシック・スニーカーが再評価され、コンバースが改めて見直されている。スニーカーという名前すらなく、ズック靴と呼んでいた頃、コンバースは若き日の憧れでもあった。かつての若者達が年齢を重ねて本物を知る世代となり、品質に厳しいマーケットで100年の歴史を刻んできたコンバースは、信頼に足るブランドとして再認識される。バスケットボールを始め、数々のスポーツ・レジェンドを共有できるのもコンバースなのだ。ベーシックなテイストをいじらずに、オールド・ファンを裏切らないのが嬉しい。昔から変わらないフォルムは、どんな着こなしにも100年の歴史の分だけ風格を漂わせてくれる。チャンピオン達のスニーカー祝100年。
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