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日本を代表する企業のトップには、「ロレックス」を愛用する人が多いと言う。それは、ロレックスが1955年に日本に上陸して以来、日本ロレックス本社とサービスセンターが丸の内にあることに起因しているという説がある。丸の内界隈に勤める多くの人達が新入社員の頃から、ロレックスの看板を見ながら通勤しているうちに、そのステータスに憧れが募るという。医師の間でも人気が高く、子弟が大学医学部に入学すると、入学祝にロレックスを贈ることがあるらしい。そんな風潮が現在もあると耳にする。
ロレックスは高級時計ブランドとして、世界的に高い知名度を持ち、コピー商品が多いことでも知られている。これらの偽物には保証書が無いものが多く、日本国内では正規代理店での保守・修理は受けられない。偽物の多さから、偽物の収集家まで存在するという。
ロレックスと言えば、まず思い浮かぶのが「オイスター・パーペチュアル」であろう。オイスターとは牡蠣の殻のように、しっかりと閉じている事に起因している防水機構の名称である。パーペチュアルとは自動巻機能の意味で、商品名は時計機能を表現している。
高級時計としての認知度とイメージ、金無垢やコンビ、さらにダイヤモンドなどで宝飾して、高級感をだす手法を多用することから、成金的イメージを持たれる面がある。一方、その価値が世界各国で通用することから、不測の際の換金用として重宝されることもあるらしい。ロレックス社は時計商社としてイギリスで創業したが、関税が高額だったため、漸次スイスに拠点を移し、その過程でメーカーになっていったと云われる。
当時は懐中時計が主流であったが、腕時計の利便性に着目。オイスター社が開発して実用化した「オイスターケース」は、それまでの腕時計と比較して、防水性が格段に優れているものだった。自動巻機能の「パーペチュアル機構」や、午前零時になると一瞬にして日付が変わる「デイトジャスト機構」を発明。腕時計で初めて国際的に公認された機構の検定に合格(クロノメーター)するなど、実用的な機械式時計メーカーとして、不動の地位を築き今日に至っている。
ロレックス社では社内情報をほとんど開示していないため、社歴については良く判らない部分が多々あるのが実情である。時計商社として設立したウィルスドルフ&デイビス社が、どのような経緯でオイスター社やジャン・エグラー社などと関係を持ち、また傘下に収めて現在のロレックス社になっていったのか、判っていない部分が多い。
1878年にジャン・エグラーがスイス・ビエンヌに時計会社を設立。その3年後の1881年に、ロレックス創業者のハンス・ウィルスドルフが、ドイツ・デュッセルドルフ州クルムバッハで誕生。青年時代はクルムバッハの広場で、祖父の開いた花屋を経営していたが、1900年になってスイスのラ・ショー=ド=フォンにあるクリオ・コンテン社に入社して、イギリスへ時計を輸出する仕事に就いた。ラ・ショー=ド=フォンは、フランス国境近くのヌーシャテル州にある都市で、スイスにおけるフランス語圏ではジュネーブ、ローザンヌに次いで第3位の人口を有している。時計産業の中心地として内外に知られており、現在ではジラール・ベルゴやタグ・ホイヤーなどが本社を置いている。また、世界最大規模の時計博物館である国際時計博物館がある。
ハンス・ウィルスドルフは1903年にイギリス・ロンドンに移り、1905年にハットンガーデン86番地で、義兄弟のデイビスと時計商社ウィルスドルフ&デイビス社を設立。ジャン・エグラー社の機械を輸入して時計を製造販売する。1907年になってラ・ショー=ド=フォンのレオポルド通りロバート9番地に事務所を開設。翌年の7月2日、何処の言葉で読んでも同じ発音になるように考えた造語「ロレックス」をラ・ショー=ド=フォンで商標登録。1910年には腕時計としては初めて、スイス時計製造協会のクロノメーター認定に合格。
1912年にはイギリス植民地への輸出業務をビエンヌに移転。この年ジャン・エグラー社は、Rolex Watch Co Aegler S.A.に社名変更する。1914年にビエンヌに本社を移転。
1920年、ジュネーブ・マルシェ通り18番地にMontres Rolex S.A.を設立。1926年には王冠のトレードマークを使い始める。また、この年にオイスターケースの特許を申請。翌年には捻じ込み竜頭の特許を取得。この年からダイヤル、ケース、ムーブメントの全てにロレックスの銘が入れられた。また、メルセデス・グライツがドーバー海峡を遠泳横断し、
その時にロレックス・オイスターを、腕にしていたことで世界的に注目を集める。1933年にパーペチュアル機構の特許を取得。1945年にはデイトジャスト機構の特許を取得。その後は取得した特許をベースに開発された高級腕時計で、世界市場を席捲するようになった。
イアン・フレミングは1908年に、ロンドンで国会議員の家庭に生まれた。陸軍士官学校卒業後、ロイター通信社の支局長(外信部長)としてモスクワに赴任したこともある。銀行の副頭取に就任するなど、職業を転々とした後、第二次世界大戦中はジョン・ゴドフリー提督の助手として、イギリス情報部(SOE=特別作戦部)に所属。実際に諜報工作員(=スパイ)として活動した経験がある。それまでの経験を元に1953年に「ジェームズ・ボンド シリーズ」(既号144.ジェームス・ボンドの愛車)の第一作目となる長編小説「カジノ・ロワイヤル」を発表。その後、1964年に遺作となった「黄金の銃をもつ男」を校正中、享年56歳で死去した。当初は一定の評価を得ながらも、売れ行きはあまり良くなく、
フレミングは何度もシリーズを終了しようと考えたが、その度に映画化の話が出て継続していた。本格的に売れ始めたのは1950年代後半で、当時の米・大統領ケネディの愛読書リストに「ロシアから愛をこめて」があったことが、きっかけだったと言われている。但し、実際に007を愛読していたのは、夫人のジャクリーヌだったとの説もある。
映画では超人的なプレーボーイのスパイをヒーローに、ボンド・ガールと称するグラマラスな美女を配し、悪役から美女を救い出すストーリーは、大衆の嗜好にも合致。また時の冷戦状況下では、東側陣営を絶対悪に擬する設定も受けて、映画は大ヒットとなった。
最初の映画化は、フレミングの6作目「ドクター・ノオ」(1962年公開。邦題名「007は殺しの番号」)だった。この映画は低予算ながら、予想以上のヒットとなり、主役を演じたショーン・コネリーの出世作となる。コネリーのボンド役は大当たりしたが、第5作まで連続出演した後に自主的に降板。ジョージ・レーゼンビーが2代目ボンド役となった「女王陛下の007」が不評だったため、第7作「ダイヤモンドは永遠に」で再びボンドを演じた。
その後の「ネバーセイ・ネバーアゲイン」に出演したのが、11年後の1982年であった。
シリーズのヒットに影響され、1960年代半ばには007もどきのスパイ映画が各国で製作されたが、一作として007を超える成功を収めた作品はなかった。007はその後も主演俳優を幾度か交替しつつ、現在に至るまで人気シリーズとして存続している。
シリーズの中でも秀逸な作品として、フレミングの5作目、映画としては2作目の「ロシアより愛をこめて」(1963年公開。公開時邦題名「007危機一発」)を挙げる声が多い。
本来「危機一発」ではなく「危機一髪」が正しいのだが、危機的状況の一髪と銃弾の一発をかけた洒落で、当時ユナイト映画に在籍し、今年6月に他界した映画評論家・水野晴郎が考案。原作の「ロシアから・・」を「ロシアより・・」に変えたのも、言葉により広い意味を持たせるためだったという。監督のテレンス・ヤングは秘密兵器を効果的に使うアクション大作に仕上げ、バラード歌手マット・モンローが歌った主題曲も大ヒットした。
フレミングの原作では、ボンドはロレックス・オイスターを愛用。映画でも数々の作品でロレックスが使用され、「007死ぬのは奴らだ」「007ゴールドフィンガー」では「サブマリーナ」と思われるモデルが登場。ボンド・ウォッチとしてマニアに大人気となっている。
ロレックス社では技術供与の例が唯一ある。イタリア高級腕時計ブランドのオフチーネ・パネライ社が、イタリア海軍の精密機器納入業者として、軍事用ダイバーズ・ウォッチ「ラジオミール」の開発を受注。パネライ一族が経営するスイス時計店が、ロレックスの代理店だった縁で、防水ケースのノウハウや、ムーブメントの供与を仰いだ。ロレックスの防水技術が、如何に優れているかを物語る例である。1970年代にはクォーツが台頭し、スイスの機械式時計産業が価格競争により、壊滅的打撃を受けたが一人勝ち状態だった。
数々の特許など技術水準の高さがブランド価値、即ち高付加価値経営へと結びついている。
時折ではあるが、ロレックスを腕にしたまま、サウナ風呂に入っている人を見かけることがある。時刻を知ること以外に、腕時計に何かを求める人も、少なくないようである。
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