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桃太郎のビジネスコラム 238

☆ エジソンが絶賛した発明☆

2009.02.04号  

 1927年、御木本幸吉は欧米へ視察旅行に行くことになった。当時の財界重鎮であった渋沢栄一(既号51.泊まりたいホテル)が、世界の天才発明王エジソンへ紹介状を書いてくれた。エジソンの家を訪れた幸吉に「私が創り出せなかったものが二つある。一つはダイヤモンドで、もう一つは真珠です」と養殖真珠の発明を絶賛したという。これに対して幸吉は、エジソンを巨星に例えて「自分は数いる発明家の、星の一つにしか過ぎません」と応えた。米ウォール街で端を発した世界大恐慌の2年前のことである。
ダイヤモンドは紀元前一世紀頃には、その価値が認められるようになっていた。ダイヤモンドという名称は、ギリシャ語のadamasが由来となっており、「打ち勝ち難い」という意味があるそうだ。それを手に入れたいとする人間の欲望なのか、その硬度と輝きを意味しているのか、由来となった理由は定かでない。
1797年、イギリスのスマイソン・テナントが、ダイヤモンドは石炭と同じ炭素からできていることを発見。それにより、多くの科学者が人工ダイヤモンドの研究開発に取り組むようになる。やがて多くの国や企業で、人工ダイヤモンドの製造に成功するが、天然のものとは比べものにならず、宝石としての価値は著しく低く、用途は工業用に限られていた。
近年になって技術も向上し、漸く安価なアクセサリーなどに、使われている程度である。
原石を磨き、精妙なカットを施さなければ輝きを得られないダイヤモンドよりも、古代から最高の宝飾品として珍重されたのが真珠であった。ダイヤモンドと同様に真珠も、古くから人工的に創り出す研究が行われていた。世界中の研究者達が夢見た人工真珠を、ただ一人実現したのが、「ミキモト」の創業者・御木本幸吉であった。

 御木本幸吉は1858年3月、三重県鳥羽で代々うどんの製造販売をする家に生まれた。
幼名は吉松と名付けられた。父・音吉はうどん屋よりも機械類の発明・改良に興味を持ち、粉挽き臼の改良で三重県勧業課から表彰を受け、100円の賞金を得たこともあった。
祖父・吉蔵は商才に恵まれた人で、家業のうどん屋だけでなく、大伝馬船を10艘も持って石材の運送で儲け、ほかにも薪や炭、青物の販売などを手広く営み財を成したと云われる。
松吉は正規の教育は受けていないが、明治維新で失業した士族に、読み書きソロバンなどを習い、うどん屋では身代を築くのは無理と考え、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。
1876年の地租改正で、納税が米納から金納に変わったことで、米が商売になると考えて米穀商へと商売替えをする。2年後に二十歳になった吉松は、幸吉と改名して家督を相続。
この年の3月に幸吉は東京や横浜を旅して周り、志摩の特産物が貿易商品になることを確信し、海産物を取り扱う商売に再び転身。志摩で獲れる雑多な海産物を扱いながら、品評会や組合の結成など、地元の産業振興にも尽力。それ以来、地元の各種委員や組合長などを務め、地元の名士になっていった。幸吉は晩年「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述べており、明治維新という時代の大きな移り変わりを的確に捉えていた。一方、私生活においても幸吉は23歳で結婚したが、当時17歳の妻・うめは鳥羽藩士族の娘で、新しい学制の小学校やその高等科を出た才女だった。このような身分の違う者との結婚は、維新前では考えられないことであった。

 世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており、海女が一粒の真珠を採ってくれば高額の収入が得られることから、志摩だけでなく全国のアコヤ貝は絶滅の危機に瀕していた。幸吉は30歳になった1888年に真珠貝の培養所を設け、アコヤ貝に真珠を産ませる研究に取り憑かれた。中国の仏像真珠に見られるように、古くから真珠を産する貝の中に鉛などの異物を入れ、人工的に真珠を造る試みは中国や欧州各地で行われていた。
知遇を得た東京大学の箕作佳吉の協力を仰ぎながら、次女・みねの夫である西川藤吉らと共に身代を注ぎ込んだ必死の努力を続けた。1893年7月11日に実験中のアコヤ貝の中に、半円真珠が付着している貝を発見。1896年1月には半円真珠の特許取得で世間に認知されたが、夫の念願成就を見て妻・うめは32歳で他界した。
しかし、念願成就と云っても道半ばである。周囲は途方もないこととして、直接的に幸吉の仕事を手伝う者は親類縁者のみであった。のちに幸吉の四女・あいも「海の物とも山の物とも判らぬ事業に一身を賭ける人間は、身内以外にはいなかった」と述懐しているように、幸吉の夢を一緒になって人生を賭けたのは、子供や子供の結婚相手だった。
そして家族の必死な努力が実り、1905年に夢であった真円真珠の開発に成功。3年後の1908年に特許権を取得した。何百年も前から世界中の研究者達が、必死になって開発していた真円真珠の養殖技術発明は、全世界に衝撃を与えた。しかし、片腕として最も頼りにしていた西川が、特許取得を見届けた翌年に没してしまう。西川は東京帝大動物学科を卒業して農商務省に在籍し、真円真珠の指導を仰いでいた箕作の下で、真円真珠の科学的研究をおこなっていた。
1918年、様々な研究実験から良質な真珠が、大量に造られるようになった。翌年からはイギリスやフランスの、宝石市場へも出荷されるようになった。しかし、称賛の一方で排斥の動きも広がった。ヨーロッパの宝石商は天然真珠と、見分けの付かない養殖真珠を贋物と断定する騒ぎから訴訟に発展。天然真珠の価値を脅かす巧妙な贋物として、世界的な論争にまでなった。御木本側はオックスフォード大学やボルドー大学などの権威者を、証人として正論を展開。やがて、イギリスは訴訟を取り下げ、フランスでは天然物と全く違いがなかったとして全面勝訴。1927年にはフランスの裁判所から、天然のものと変わらないとの鑑定結果を受けた。これによって幸吉の産んだ真珠は、宝石として世界が認知したのも同然だった。苦労の甲斐があり今では、真珠と云えば養殖真珠が、当たり前のようになっている。1954年9月21日、御木本幸吉は老衰のため、96歳で天寿を全うした。

 1905年、それまでの真珠養殖の研究が認められ、明治天皇に拝謁する栄誉を賜った。養殖技術は途上の段階で完璧ではなかったが、幸吉は天皇に「世界中の女性の首を、真珠で飾ってご覧に入れます」と大見得を切ったと云われる。その後、幸吉は養殖技術を完成させて真珠王と呼ばれるようになり、明治天皇に云った大見得を実現させた。
1951年には、第二次世界大戦が終わり疲弊した全国各地を、行幸した昭和天皇が幸吉のもとを訪ねた時「あんた、よく来てくれました。有りがとう。有りがとう」と話したと云う。
終戦により現人神であった天皇が人間宣言をした。それを承知していた93歳の幸吉が、最高のもてなしの言葉として迎えた。それを聞いた昭和天皇も大いに喜び、幸吉に近親感を覚えたと云われている。
1949年に養殖と加工・輸出を担当する御木本真珠株式会社と、販売を担当する御木本真珠店を設立。2年後には三重県・鳥羽市に御木本真珠島を開業。ここは鳥羽湾内にある小島で、英虞湾内にある神明浦と並ぶ養殖真珠発祥の地であり、全島が株式会社・御木本真珠島が経営するレジャー施設となっている。1893年当時は相島(おじま)と呼ばれており、幸吉が真珠養殖に成功した島である。
1972年、社名をミキモトに改称。ミキモトはミス・ユニバースのメインスポンサーにもなっており、2002年大会より優勝者はミキモトの王冠を使用している。現在は東京都中央区・築地に本社を置き、「ミキモト・パール」の名は世界に知られている。
 


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