ブランドに学ぶ 儲けを生みだすビジネス・コラム

桃太郎のビジネスコラム 254

☆ アメリカンカジュアルの象徴☆

2009.05.27号  

 今から50数年前に一人の青年が、出演した映画の中で羽織った赤い「ドリズラー・ジャケット」は、世界の若者達の心のユニフォームになった。このドリズラーは時代を超えて今なお人気を保ち続けており、世界的人気を博した1960年代のテイストを蘇らせた。
現代的なアレンジを加えた復刻版アイテムが、昨年2月に日本に再上陸。アパレル衣料ブランド「マックレガー」が販売するドリズラーは、カジュアルウェアーとしてだけでなく、ゴルフ用ジャンパーとしても、今でも手放さないファンが数多くいる。
マックレガーは1921年に米国で、デビッド・D・ドニガーが「永遠のアメリカンスピリット」をテーマに創設した。マックレガーは英国から輸入したゴルフウェアーを「コーディネートスポーツウェアー」として提案し、アメリカンカジュアルの原型を作り上げた。
以来、マックレガーのアイテムは、古き良き時代のアメリカンカジュアルを、象徴するブランドとして、世界中のファンから愛され続けている。
第二次世界大戦後は、戦勝国として経済大国となっていく米国の文化が、世界中に押し広げられていくなか、マックレガーのアイテムは50年代以降、米国陸軍のPX(基地内売店)を通じて、20ヶ国以上で輸出販売された。コカコーラやハリウッド映画と同じように、米国カルチャーのシンボルとして、外国でもファンを広げて行くようになった。日本ではマックレガーが、カジュアルウェアーの基本である「コーディネート」という概念を持ち込んだ先駆者だった。そして日本の若者も、米国の若者と同じように赤いドリズラーを着ると、不思議と襟を立てて肩をすくめた。映画に出演していた、あの青年のように・・。

 マックレガーの持つ膨大なアーカイブには、それぞれの時代の若者達の息吹が込められており、次なるアメリカンカジュアルを育んできた。「バッジ・ドラゴン」は往年の名テニスプレーヤーのドン・バッジが、デザインしたと云われるドラゴンのモチーフを原型としている。昔の流行に新しい機能や素材を加え、シルエットも最近流行している細身のタイプに、リメイクして仕立て上げた。これは60年代のマックレガーの、広告に掲載されていたイラストや、古着などを現代版に復刻させたものだった。ブランドターゲットは20歳代後半から30歳代前半の男性で、日本でも大変な人気を呼んでいる。
もちろん、マックレガーのシンボル的アイテムのドリズラーも、現代の若者達から大きな支持を得ている。「スコッティッシュ・ドリズラー・ジャケット」は、レーヨン60%に綿40%を混紡した、伝統の素材であるドリズラー・クロスを使用し、赤、黒、青、それにベージュの4色が用意されている。価格も4万950円とリーズナブルだ。サイズはXLまであるので、60年代に青春を謳歌した、下腹部に貫禄がついたお父さん達でも心配無用だ。
ジャケットのほかにも、シャツやポロシャツ、スポーツコートやパンツ、帽子などもラインナップされており、マックレガーらしいコーディネートが楽しめる。

 第二次世界大戦後はハリウッド映画も黄金期を迎える。兵役から解放された若者達向けに、数多くの青春映画が製作された。暴走族が小さな街で暴れ回った実話を取り上げ、これを題材にマーロン・ブランドが主演した「乱暴者(あばれもの)」(既号223.若者達のジーンズ )。ビルヘイリー&コメッツが演奏し、ロックンロール人気が爆発する契機となった「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が主題曲の「暴力教室」。この映画はグレン・フォードが主演。黒人だが清潔感のある人気俳優シドニー・ポワチエのデビュー作であった。この2作とともに戦後のハリウッドを、代表する青春映画が1955年に製作された。
『ロスアンゼルスに引っ越してきた17歳の青年ジムは、酔っていたところを集団暴行事件の容疑者として警察に保護された。この警察署でジムはジュディとプレイトに出会った。社会や大人達へのやり場のない苛立ちを抱えていた3人は意気投合。しかし、ジムが初めて登校した日から、不良グループのリーダーであるバズが、何かと注文をつけてくる。飛び出しナイフによる決闘では決着がつかず、自分に従わないジムに苛立つバズが、今度は度胸試しにとチキンレースを挑んできた。車を崖に向かって全速力で走らせ、崖に限りなく近い処で脱出するのが度胸ある男だ。二人はジュディの合図で、車をスタートさせた。
崖を目前にして脱出しようとした時、革ジャケットの袖がドアの取手に・・・。』
ワーナー・ブラザーズ社は、悩み多き青年達の生態を描いたロバート・リンドナーのセミ・フィクション小説「理由なき反抗」の映画化権を5000ドルで獲得していた。ワーナー社は乱暴者に主演した個性派の、人気俳優マーロン・ブランドにオファーをだしたが、ブランドは興味を示さなかった。ワーナー社はやむなく若者向けのB級作品として映画化し、短期間で制作することにした。企画を進めていく中、ロスアンゼルスに住む非行少年を、主人公にシナリオを書いていたニコラス・レイに注目して監督に抜擢。リンドナーの小説からは映画のタイトルだけを使い、シナリオはレイのものが使われた。
55年に公開されたばかりの「エデンの東」(既号154.ジェームス・ディーンが愛した車)を見たレイは、主人公のジム役にディーンを熱望。一方、ディーンは次回作が「ジャイアンツ」に決定していたが、主演のエリザベス・テーラーが出産のため、撮影が大幅に延期されることになった。代わりの作品が必要となったワーナー社はディーンの出演を決定。
ジムの相棒役プレイトには、15歳の無名新人サル・ミネオを抜擢。ヒロイン役のジュディには、当時契約社員だったナタリー・ウッドか起用された。ナタリーは後に「ウエストサイド・ストーリー」で大ブレイクした女優だ。音楽は「エデンの東」と同様にレナード・ローゼンマンが担当。レイは大人の社会を、3人の若者の目線から描こうとしていた。
企画が進行して撮影が開始された最初の4日間は、モノクロで撮影が進行していた。しかし、その頃になると公開されていた「エデンの東」が、想像以上の興行成績を上げ、無名だったディーンの人気が急上昇していた。ワーナー社はA級作品に格上げし、撮影もカラーフィルムに変更。当初の脚本にはジムとプレイトの同性愛が露骨に表現され、キスシーンまで書かれていた。当局の検閲官からも表現を控えるよう命じられたこともあり、キスシーンはカットされ、同性愛者を意味する俗語「パンク」という言葉も削除された。それまでの撮影では、ディーンは黒革のジャケットを着ていたが、カラー撮影となりカラフルな衣装が映えることから、赤いナイロンジャケットに変更。これがマックレガーのドリズラー・ジャケットで、ディーンの映画衣裳では最も有名なものとなった。そして、この時に穿いていたリーのジーンズ・101ライダースとの絶妙なコーディネートは、世界中の若者達のファッションとなった。公開された映画が爆発的にヒットしたのは云うまでもない。

 日本には1961年に日綿実業(前ニチメン、現・双日)が、ライセンス契約を結んで紹介した。現在は78年8月に設立された双日インフィニティが取り扱っている。
マックレガーは60年代以降にアーノルド・パーマーやラコステなどが、ブームを興したワンポイント・マークでも先鞭をつけていた。ドリズラーの何度となく繰り返された復活人気もあり、日本においてメンズ・カジュアルウェアーを定着させる立役者でもあった。
2008-2009A/Wより、セレクトショップの雄・ビームスとコラボレートしたバッジ・ドラゴンは、古き良きアメリカンカジュアルをベースにしながら、現代風アレンジをプラスして見せた。東京の原宿や渋谷の店舗「BEAMS+」などで扱っている。又、今年の7月には原宿に総売場面積99平米のバッジ・ドラゴン直営店をオープンする。


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